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スピンオフ1号 運玉

 鵜戸神宮の「運玉」

運玉

 

#その日は9月の残暑の厳しい日で、いつものように仕事は滑り出した。

 

 10時前、事業所の職員から内線が入った。「利用者が急変したので救急車を呼びました。」

取り急ぎ先日転んで痛む足を引きずって当該の事業所(歩いて2分)へ向かう。こんな時に限って転んで靱帯損傷とか肉離れになっている。

 

事業所に着くと主任(40代♂)が心臓マッサージをしていた。こいつがものを考えられるようにしてらやないと事態は好転しない。「私が替ろう。」と言い、交替した。利用者の顔は真っ青で、どう見ても死んでる顔だった。ここまでの事情を聞いている暇はなかった。

 

「K君、こりゃ駄目だ。」 

「はい。僕もそう思います。」

救急車が到着するまで7,8分あっただろうか。胸の一押しごとに祈るようにつぶやいた。

 

早く来いっ、救急車! 

 

早く来いっ、救急車!

 

・・・・神様!

 

 

肋骨の折れる気持ち悪い感触が手のひらに感じられた。心臓マッサージは肋骨が折れないと力が心臓に伝わっていない。

そいういうものだ、と習ったが、何度やっても気持ちが悪かった。

就職して何度かこんな場面はあった。学生時代、自分が救急蘇生を学んでも、役立てる機会は無いと思っていた。

わからないものだ。

 

 

心臓マッサージをする私の横で、スタッフが概要を説明した。

今朝の経過はこうである。迎えに行ったとき、利用者N氏は「ああ、○○○デイサービスさんね、」

といって介助して貰って歩いて車に乗った。20分ほどの距離を走って到着し、車から下ろそうとした時には明らかにおかしい様子で、心肺停止の状態。

ケースは95歳、最近サービス利用が始まった方で、進行性側索硬化症と診断され、あと2年で死ぬと言われていた。

癌にもかかっていたが、年が年でもう治療はしないとのことだった。

要するに、側索硬化症が早いか癌が早いか老衰が早いかという話である。

しかし、私としてはここで、今この場で死んで欲しくはなかった。

 

 

 

スタッフの看護師がAEDを持って走って来て、着衣を剥がし、胸にパットを貼った。電源を入れるとAEDの指示は更に心臓マッサージをしろ、とのこと。数人のナースと私の交替で心臓マッサージをした。

 

 

このときばかりは神に見えた救急隊が到着し、更に10分ほどでドクターカーという、ドクターが乗っている救急車が来てくれることになった。

ドクターカーはやってきて、俄に現場は8人の救急隊員と2台の救急車、それにうちのスタッフで物々しい空気に包まれた。

 

ドクター「ルート確保!(血管に点滴を入れること)」 

 隊員 「確保します!」

ドクター「強心剤!」

                    ・

                    ・

                    ・

そして心臓マッサージは胸のところに、フラフープを半分に切って、その真ん中に取り付けた棒がまっすぐに心臓を押す構造のマシンを取り付け、人の手は引き下がった。

 

「DNARはどうなっていますか。」

 

DNARとは、Do not attempt resusucitationのことで、救急蘇生を行わないでくれという本人の意志のことである。

このケースはまだうちのサービスを利用するようになって日が浅く、そこまでの具体的な意志の確認は出来ていなかった。

実際DNARとなると書類での本人、家族の意思確認が要る。何しろ人一人が死ぬのである。

まだ日本の社会はそこまで行ってない。肝心の本人は95歳、奥さんは認知症がかなり進んだ二人暮らし、

自分の病気が何か大きな病気らしいこと、いずれ死に至るらしい、くらいしか認識はなかった。訪問診療をする在宅医にかかっており、こうした急変時の申し合わせは、あったのかも知れないがこの時在宅医と連絡はつかなかった。

 

 

 

ドクターはキーパーソン(家族)との連絡を試みた。べらんめい調の太った50歳くらいのドクターで、

 

ドクター「家に電話したらボケボケの婆さんが出た。これじゃ駄目だ! 他の家族は!?」

 

他の家族はここから車で20分ほどのところでパート勤めをしている娘。

うちのスタッフのK君からの電話で父親が倒れたことを10分ほど前に聞いたばかり。

急遽こちらに向かっているところだった。

そしてパトカーのドクターからの電話を受けることになった。

 

 

 

ドクター「娘さんですね?救急車の医者です。お父さんですが、現在心臓は動いてないし、呼吸もしてません。器械で心臓マッサージをしている状態です。心臓も頭も(ものが分かるようには)戻らないと思いますが、このまま救急蘇生を続けますか? このまま病院の救急に運べば、気管切開になります。救急に運ぶという事はつまりそういうことです。どうしますか。」

 

 

 

 

先生・・・・それは無理かも。その電話の意味を正しく理解し、回答するには電話の相手はあまりにも普通の女の人すぎる。

絶句したままの相手の様子がドクターのすぐ脇に立つ私に見て取れた。

 

 

 

すると、「あっ!動いた!!」

患者を看ていた救急隊員が叫んだ。

 

 

ドクター「あ。今、お父さんの心臓が動き出しました! でも運んでいる途中にまた止まるかも知れません。止まる可能性は大です。

今度止まったとき、そこで治療を止めるという選択肢もあります。頭の方は(物事が分かるようになるくらいに)戻ることは多分無いでしょう。それでもこのまま続けていいですか?」

 

娘さんにしてみれば自分が続けなくて良いと言えばドクターも救急隊も帰ってしまい、そこで父の命は終わる。自分がとどめを刺すように感じただろう。いきなり言われてそこまでの覚悟はない。

結局 娘さんに覚悟がないのを見た医師は、

「分かりました。蘇生を続けます。このタイミングで心臓が動き出したと言うのも、もう一度最後に娘さんやお母さんと会いたいという意思表示と取れないこともない。」とこの医師には不似合いな一言で電話を切った。

 


 

#後日、このケースの利用者は一応命を取り留め、家族は事業所に深く感謝していると聞いた。

「認知症の進んだ母だけの時父が倒れても、何もできずにそのままだったと思います。」

それはつまり、もしかすると、何日間か放置されてお父さんは無事に死んで行ったかもしれない。

 

 

 

「あのまま救急にいるんだそうですよ。」

目を覚ます事はないだろう。それは私にもわかった。心肺停止の時間が5分で障害が残り、10分で死亡すると言われている。

 

一命をとりとめたとは、私たちの必死の努力が効を奏したということであり、喜ぶべきことなのかもしれないが、これで良かったか?という気持ちが深く私を揺らした。

私が彼であったなら、年からいっても病気からいっても早晩死ぬ。せっかく車に揺られて気持ちよく死んだのに救急で目が覚めたら機械に囲まれ、チューブや点滴に繋がれ、肋骨は軒並み折れて痛くてたまらなない。くそ!どうしてくれよう!と思うだろう。

 

 

でも、結局 そこをはっきりさせておかなかった本人の責任である。文字にも書き、家族にも周囲にも言い、カードにしていつも持って歩く。自分の意志をはっきりさせておかねば、たとえ家族、配偶者や子供であったとしてもなかなか人の死なんて決められるものではない。決められない日本なのである。そして法整備は悲劇的に遅れている。

 

 

 

#後日、この件に関し妹と話した。

 妹は福岡で麻酔医をしている。

 

「医者は、生かすための訓練しか受けないんだよ。医者にかかればとことんやる! 

やるさ!助けたい!と思って医者になったんだから。全力で、全身全霊をかけて、やる!

そうでなければ医者なんか出来んよ。

死なせる?

それは第一線の医者の仕事じゃない!

 

在宅の看取りとか言うなら、医者でも初めからそういう訓練を積んだ医者か、

もしくはどうせ医療を全く行わないなら多少訓練を積んだ新しいナンチャラ資格の普通の人で十分なんじゃないか?

牧師とか僧侶とか? 看取り師みたいな。」

 

まぁ、そうだよなあ。

 

そしてこんな話をした。

妹「この前手術で麻酔かけたおばあさんさあ、93歳で骨折の手術だったんだけど、

普通その年だと麻酔かけると死にそうなのでやらないことが多いんだよ。

 

でも状態良さそうだったので出来そうだなと思ってね。出来ると返事したの。

そしたらそのおばあさん手術が始まる前に、

『先生、私はもう十分生きました。

手術中何があっても悔いはありません。

麻酔かかったまま死ねたら全然苦しくない、本望です。

先生が責任を感じる必要は全くありませんから、ね!?』

 

『いやいや、私が担当するんです、絶対に死なせません。

っていうか私が担当する術中と術後だけは死なないで下さい、

いいですか、絶対に、絶対に死なせませんからね!?

 死んでもらったら困ります!』

アタシのキャリアに傷がつくじゃんねえ?(笑)

変なこと言うから何度もチェックしてさ、いつもよりナーバスになっちゃったよ。」

  

確かに麻酔かかったまま死んでもいいやというおばあさんの気持ちはよく分かる。

 

 

 

#自分のこととして考えるとき、気絶していたらそのまま放置してほしい。

気絶するまでが恐ろしいのだ。気絶したら痛くも苦しくもないのだから、何もしてほしくない。

せっかくうまく死ねそうなところまで来たのだ。

痛がっていたら、また苦しがっていたらどんな薬でも使って下さい。お願いします。

 

 

 

 

#うまく心臓も呼吸も止まっていたら、どうか触らないでそっとして置いて欲しい。

あともう少しでうまく死ねるところまで来ている。

 

心配しなくても私は天国に行くに決まっている。

可能だったら、祐徳のお稲荷さんのちょっとlazyな子分になって

もうこの世には生まれてこない。

そしてあなたを守ってあげる。

 

今度の生は良い子供たち、良い知己を得て悔いなく生きたけど、

また日本人に生まれて悔いなく生き抜く自信はない。

もう生まれなくてもいいや。

浮き世は苦しみと、誘惑が多かった(笑)

 

葬式は、してもしなくても良い。

本当は舅姑と一緒の墓になんて入りたくないけどだからといって実家の墓もごめんだ。

でも、あれこれ言うとみんなが面倒くさいから、好きにしてくれ。

みんなが一番簡単なように。

 

 死ねば骸はただのゴミだ。こだわりは、全く、無い。

 

 私はそう考える人だったと覚えておいて欲しい。

 

 

 

 

 

エピローグ ------- ベトナムレポート

 

ハノイ

 

#早朝5時20分、自宅前に予約のタクシーが連れのT子さんを乗せて到着した。軽いゴロ付きスーツケースをトランクに乗せ出発。博多から直行便、ベトナム航空。

1日目 2月28日

    10:30 福岡国際空港発 

    13:20 ハノイ着

    15:00 C社 本社視察(送り出し機関)

    18:00 夕食 ベトナム料理 まあまあ 不潔との闘い

 

2日目 3月1日(金)

         9:30 日本語教育センター視察

   12:00 フォー

   14:00 C社にて実習生面接

   18:00 夕食 ベトナム料理 まあまあ 

 

3日目 3月2日(土)

     9:00 ホテルチェックアウト

   12:00〜旧市街地、ベトナム世界遺産等視察

        車中で適当に

   19:00 夕食 空港でピザ

   
4日目 3月3日(日)

  am1:50 ハノイ発 

     7:20 福岡空港着

 

大体このような予定で動くことになっていた。

しかし到着直後、ムンバイ空港から高速道路に乗り、ほんの数分行ったところで高速道路の封鎖に遇う。曰く、「米朝会談の不調でトランプ大統領が急遽帰国することになり、今からここを通るからとのこと。

「ほんの数分早ければ抜けられたのに、悔しい。」生真面目な若いドライバー君は大層悔しがったが、私はトランプの乗った車が見られる方がずっと嬉しかった。米朝会談があることは予め分かっており、一瞬日程の変更を考えたが、テロの可能性も厳重な警戒下の方がかえって安全だろうし、ハノイ市内はごった返すかも知れないけれど、それも面白い。

何より、この日のハノイ入りを決めたのは米朝会談よりうちの方が先だ。

受け入れ先の会社は当初米朝会談はダナンで予定されていたのでゆっくり構えていたが、急遽ハノイ、となって私が日程は変更しないと伝えたので、慌ててホテル等予約した。あっという間にホテルというホテルは記者団他随行員の様々な予約でいっぱいになり、街はいつもの何倍も活気を呈し、ごった返した。

 

 

旅の目的は、日々減り続ける日本人の労働人口のせいで日本の労働者の争奪戦になり、うちのような弱小の企業は人件費の高騰と人手不足に悩む。人件費が高騰する割には新人職員の質は下がり続け、新人たちのやる気のなさ、いい加減さを見ているその他の先輩職員がやる気をなくすという悪循環になっていた。そのため、思い切って4月の法改正を睨んで他の企業より少し早く動き出すことにしたのである。これより早くても(EBAなどは国があまりにも外国人労働者側を保護しすぎたため、企業の出し前が多すぎてダメだったし、これより遅くてもダメだと思う。私は、(信奉する祐徳稲荷さんのおかげで)ほんの少しの微妙な間に飛び込んで、ハノイの地に立った。

 

うちの事業所と来てくれることになるベトナム人労働者の間には、日本側の人材紹介の会社とベトナム側の会社が介在する。いいのか悪いのか分からないが、上記の時期を含めて会社の選別も勘に頼らざるを得ない。どの会社にしても実績がないのは同じだ。

 

 

 

 

#早朝5時半に自宅を発し、13時半ハノイ着。初めてのベトナムはスモッグで終始濁った色の空だった。日本も昔こうだった頃があったよな。四日市ぜんそくとかがあった頃。沢山の、50佞離丱ぅが走る、走る、走る。車も隣と接触しそうに近く、しかも結構なスピードで、事故もなく走る。明らかに、日本人よりハノイ人は運転が上手いらしかった。結婚式に向かう車あり(てっぺんに花束を載せている)、豚を満載したトラックあり何もかも雑多に、その間に挟まれて50侫丱ぅに3人、大人の間に子供を挟んで3人また4人で乗っている。ぎゅうぎゅう。豚もトラックにぎゅうぎゅう。車もバイクもみんなぎゅうぎゅう。

 

 

 

#ベトナムに行く前と行った後、ベトナムの印象は変わりましたか? と事務所の女の子に聞かれる。

ううむ・・・・ 私は行く前、ベトナムについてどう考えていただろうか?

 

敢て聞かれると、もう私の記憶は上書きされてしまって原型は消去している。

 

ただ、私がベトナムについて知っていたのは、ベトナム戦争、サイゴン陥落、サイゴンから来た妻と娘(近藤○○著)、枯れ葉剤、ベトちゃんドクちゃん、最近はベトナムからの出稼ぎ労働者が増えてきている、国民性は日本人と似ていて真面目で勤勉な人が多い。そんなものだろうか。つまり、ベトナム戦争関係と、最近の出稼ぎ労働者以外は殆ど知らない。行ってみたベトナムはもっと動的で、ベトナム戦争の影響は消えつつあった。ただ、野良犬や野良猫は全く見かけなかったが、君ら、食べちゃうんか?

 

 

 

 

#私の出題した問題は、国語、算数、社会、一般常識として、「消毒」について何でも知っていることを言え、はしか、水疱瘡、おたふく風邪等は罹患しているか。芸術系で歌か絵かどちらか一つ、体育として反復横跳びをさせた。11人の中で選抜は3人。多分こんな問題を出した試験官は後にも先にも私だけかも知れない。その人がどういう人なのか自分の言葉で語って欲しかったが、履歴書の志望動機はありきたりな就職のための履歴書の文章が、しかも5人分ほどは一字一句違わず同じことが書いてあった。

 

 

国語についてはベトナム語の、新聞でも何でもいいから用意してくれ、と通訳に頼み、ベトナム語の詩が用意され、壁に投影した。時事問題について新聞が良いがナァ、と思ったがそこは急に頼んだので仕方ない。日本に来たら最初の日本語の手ほどきは私がするつもりだが、ベトナム語が読めない奴に日本語が読める訳がない。引っかからず読めるかどうかを見た。そのくらいなら、アルファベットに記号がついている文字だったのでっ読めているかつかえているかくらいは私にも分かった。

 

算数は、7を9回足せ、8を6回足せ、これは7を9回足すとは7×9のことだと分かっているかどうか、正しい答えが言えるかが聞きたかった。しかしおバカな通訳が勝手に7×9は? と言ってしまっていたらしい、ということは後で分かった。11×11、12×12、13×13は気が利いた人なら日本人は覚えている人が多いが、受験者は筆算でする者が多かった。1人2人が即座に答えた、会社がやっていた算数のテストもこの二人は満点と97点だった。

 

 

社会。ベトナムの地理的なことが一番良さそうだと思った。しかし、私はどこも知らないし、受験者には旧南と北の出身が混ざっているはずだ。どうしても、歴史の話が出てきそうな気がした。歴史が出てくるとまずいかもしれない。受験者の中には祖父母、親戚を亡くした者もいるかもしれない。沖縄や終戦記念日、ヒロシマが日本にあるように、アメリカにリメンバーパールハーバーがあるように、この土地には忘れられない傷跡があるのだろうか? ベトナム戦争について私は知らなさすぎた。日本に来ると言うからには世界の国の知っている名前を挙げるよう言うと、アジア、ヨーロッパが出てきた。イラクが出た。アフリカ、南米、オセアニアは一つも出てこなかった。

 

 

反復横跳びは、この国の人達は全く知らないだろう。仲介業者は20リットルのタンクを持ち上げられるかどうかで腰痛を見た事業所があったと言うが、なんだかそれは非人間的な気がした。そこで、縄跳びをさせようと思ったが縄跳びを持って行くのを忘れた(!!)ので、反復横跳びに切り替えた。指示に従ってそつなくこなす人、説明してもよく分からない人、それぞれだが、概ね若い方が飲み込みは早く得点は高かった。

 

 

歌か絵は、一人を除き皆歌を選んだ。勿論全てベトナム語。一人秀でて目を引いた者が居た。決して上手ではなかったが、胸を打った。3才の子を母親と夫に預け、単身3年間海を渡る。その間家には帰らない。よほどの事情があるのだろう。

「何でもします、頑張ります、チャンスを下さい!」

 と、少し涙ぐみながら必死に歌う歌に、どういう意味の歌かと聞くと

「母の恩に感謝する歌です。」 ・・・・さしずめ、「母さんの歌」みたいなやつか?  この人は採用した。28才だったが、少し年かさのが居て、若いピーピーを支えてくれる構成が良いだろう。

 

一人アホなのがいて、歌詞を途中で忘れ、歌い止まると通訳が脇から歌詞を教えている。しばらく歌うとまた止まってしまう。何の歌か聞くと、「国歌です。」 ・・・爆笑。

国歌忘れてどうする!!  短い曲を選び、あっという間に終わったやつ、童謡を振りをつけて歌った子など。概ね皆歌はうまかった。

 

 

一人だけ絵を描いた子が居て、薔薇の花の絵を鉛筆でさっと描いた。絵は下手では亡かったが雰囲気が変わりすぎていて、うちの事業所の雰囲気に合いそうもなかった。

 

結果として、役に立ったのは算数と芸術。個性がはっきり分かって選抜の参考に大きく貢献した。

 

 

最後に来てくれたお礼に、折り紙で小さな箱を折って、好きなだけ持って行きなさい、と言った。まさかこれも審査の対象であるとは思わないだろう。取り方や表情にも個性があるのではないか。何しろ言葉が通じないのでノンバーバルな方法でしか個性を汲み取ることが出来ない。通訳は可愛いいい子だったが、通訳の腕はかなり怪しかった。母の歌を歌った子は、一つしか取らない。飴の袋とマーブルチョコレートやアポロチョコレートの入った△の小さなパッケージがあったが、飴を一つだけ取った。

「沢山持って行っていいんだよ?」と言うと、「後に待っている人がいるから、自分だけで取ってしまいたくない」この答えも合格の後押しにはなった。3才の子のために、持って帰りたいだろうに。

一つしか取らなかった子が他にも居た。絵を描いた子である。「いくつでもいいんだよ?」と言うと、「飴は嫌い。」

おいっ オマエ、良い度胸だな(笑)。

 

 

消毒については、この手のタイトルをいくつか考えて行くべきだった。済んだ子にまだの子が問題を聞くために、答えが皆一様になってしまった。はしか、水疱瘡などについてはかかっているかどうか分からない者が多かった。しかし、破傷風という言葉は時々出てきて、破傷風のワクチンを受けている者が複数居た。ということは、日本では赤ん坊の三種混合ワクチンをほぼ全員受けるため破傷風での死亡は聞かないが、この土地には破傷風で死ぬ者が出るのかもしれない。

 

 

11人を出来るだけ丁寧に面接すると、外はもう真っ暗になっていた。でもはるばるこのために来たのだ。時間は足りない位だった。初見で11枚履歴書を渡され、すぐ面接し、その場で合格者を決めることになっていた。2人は私とT子さんが一致してすぐ決まったが、3人目で顔が可愛いけどアホなのと、がみっとした顔だけどそこそこ優秀そうなのとで迷い、結局T子さんの意見を聞いて優秀な方にした(>当たり前だろう)

合格した子と一緒に写真を撮り、創立記念40周年の名入りのボールペンを渡してきた。合格者は全寮制の日本語学校に移る。授業料はうちが出すことになっている。不合格者は来週また別の事業所の面接を受ける。8ヶ月日本語を学んで、N4という日本語試験に合格すると日本に渡航し、更に40日ほどの日本側の仲介業者の研修所で研修を経てうちに来ることになっている。来るのは1年近く先だ。

 

さて、この計画はうまく動くのだろうか????

分かったのは問題山積だということだ。

 

 

 

 

 

 

#翌日9時、チェックアウトすると、夜中の2時まで私たちに居場所はない。取りあえず世界遺産のハロン湾に行くことになっていた。ドライブすれば、私たちには車という居場所がある。車は8人乗りのやつで運転手、通訳、私、T子さん、仲介業者の5人で乗った。ホテルを出るとすぐ、キムジョンウンの帰国行列渋滞に巻き込まれ、3時間の予定が5時間かかった。運転手がすまながって落ち込むので困った。でも私は、町並みをゆっくり見られて楽しかった。自分の住んでいる街など面白くもなんともないが、ここは違う。二度と来ないかもしれない。どんな街だとしても面白かった。

 

 

 

印象その他。

1.トイレがどこも汚い。簡易水洗で事の後に脇についているシャワーで流すようになっている、床がそこら中水浸しで、汚らしかった。壊れて水が流れないまま放置の便器も沢山あった。トイレットペーパーはないのが普通で、手洗いの洗面台の水はどの台も全く出ない。大きなサービスエリアのトイレでさえこうである。外国人だけが、どうして良いのか分からず、トイレのブースに入ってみては汚くて飛び出し、次のブースを覘いて・・・とうろうろしていた。

 

かなり高級そうなレストランもトイレは汚かった。帰国してからあのトイレについている金属製のホースのシャワーは流すためにあるのではなく、尻を洗うためにあると聞いた。だから床がびたびたに濡れているのだな。昔、ヒデとロザンナという夫婦の歌手がいて、イタリア人のロザンナが日本に来たばかりの時、壇になっている和式トイレの使い方が分からず、生尻で座ってしまったと言っていたが、トイレの使い方というのは各国とても違う。最初に確認していくべき事だと思った。

 

 

2.生水を飲まないのは常識なのでそれはいいとして、自販機、コンビニはない。ホテルにはペットボトルの水が2本(350CC)が用意されており、あとは業者さんがタダでいくらでもくれた。しかし、レストランで「何か飲みますか?」と言われたとき、つい「檸檬ジュース」と言ってしまい、しかし一口飲んで氷を見て、これはまずいかもしれない、と思った。日本で生水は絶対飲めないが、氷はその水を凍らせてあるので絶対飲むな、と言われていたのである。ふと前を見ると、間に入ってくれている業者さんのトップが、さっきから缶コーラしか飲まないのを見た。最初は男なのにコーラばかり、って珍しいな、と思ったが、そう、そういうことだ。缶コーラなら衛生上間違いはない(たぶん)。泊まったのは日系のホテルで、パッと目には綺麗だったが、朝の食堂レストランの窓のところにゴキブリの糞らしきものがあったし、部屋のカップはyoutubeの中国5つ星ホテルのトイレ掃除用タオル後タオルでコップを拭いていた隠し撮り画像ですっかり気持ち悪くなっていたので、日本から持ってきた99.99パーセント消毒という不織布でよく拭いて、湯を沸かして熱湯で流し、ドライヤーで乾熱をかけてみた。ともかく無事には帰れた。

 

 

 

私は細心の注意を払って無事帰国したが、連れのT子さんはグァバの生ジュースを飲んでお腹を壊した。火の通ったものだけ食べようと熱々のものを頼んでも、フォーがつけ麺式だったり、清潔操作で作られているとは限らなかったり。どこに行っても恐る恐る食べた。着いた日、ホテルのフロントでカップヌードルのシーフード味が山のように積まれていたが、翌日全部別のカップヌードルになっていた。みんな心配であれを食べるから売れるんだろう。福子さまさまだ。向こうの人はどうも無さそうだが、たぶん腸内細菌叢がベトナム仕様になっているのだと思う。

 

 

2日目の昼食を取ったレストランは見てくれから全く清潔とはほど遠い感じのレストランだった。「ここは美味しいと評判の店」なんだそうだが、入り口には鳥かごが5つも6つも吊ってあって、「この下で食べるのかようっ!」と、実はすぐにも逃げ出したかった。インテリア的にはコンクリート打ちっ放しに近い工場の内装にでもありそうな緑色。階段は急で踏みしろは浅くカーペットはべたべたに濡れて滑りそうだった。ようやっと4階まで上がると、窓が高く採光が悪く、なんだか刑務所のようだ。私は顔には出さない方だが、T子さんはもろ顔に出るので、自分でも反省していた。

 

私たちの空気を察して、業者さんが「この店はオバマ大統領が来て食べた店だ」(オバマとベトナムの首相?)との壁の額入り写真を見せる。でも誰が来ていたとしても、店の衛生状態に影響力はないらしかった。

 

 

 

 

ハロン湾は世界遺産で、鍾乳洞がすごかったが、これが見たくて来たわけではない。観光のあとマーケットを少しうろついて疲れ果てて空港に転がり込む。食欲のない中、ピザでお茶を濁し、業者を帰し、帰国の途につく。

夜中の2時にハノイムンバイ空港発、午前5時(日本時間午前7時)に福岡国際空港着。

現実に戻った博多は冷たい雨が降っていた。

 

 

 

 

 

 

#『開店休業 たばこ屋ダイアリー』23年間のお付き合い 深く御礼申し上げます。

 

 

 

スピンオフをよろしく。

早咲きの桜

 

#あれからナスカ夫妻は更にどうなったか、というと。

 

 基本的には元に戻ったが、若干違っている。なぜか夫がゴミ出しをするようになった。そして「皿洗いは僕がするからいい」と言うようになり、食器洗い機に入れるだけだが、夫が皿を洗っている。それから、洗濯物は自分の分は自分でするがうちのならいだったが、時々、夫のほうにこっそり靴下とかパンツとか、目立たない物を入れていたナスカさんはそれをしなくなった。特に何という話し合いをしたわけではない。

 

そして先日一言ポツリと、

「俺、ナスカがこんなに強い人だとお見合いの時知ってたら、結婚しなかったかも知れない・・・・。」というので爆笑。何を今更。ふん。(笑)結婚して数十年、猫をかぶり続けてきた私凄い。

 

 

 

 

#去年の4月、たばこ屋ダイアリーはあと1年、月1で12本で終わりにする、と書いた。長年読んでくれていた方から、「やめると言うな、ぼちぼち書いていって、ああ あれが結局最後のページになったなあ、でいいじゃありませんか、」というツイッターをいただき。そうですねえ・・・・ ワカリマシタ。4月以降は時々、または稀に、スピンオフを書くということでひとつ。でもそんなの読む人いるかな。

 

 

jugemは無料のアクセスログがついていて、JUGEMのログがホントかどうか分からないけどこんなぶらぶら更新でも読んで下さる方がいるらしい。良い時代になったものだ。これを始めた頃は読み手は自分でスカウト(笑)して来ないと駄目だったもんナ。

 

3月、本編最後の日記はベトナムの話を書くつもりだから、今月はこういう日記にすることにした。

 

 

 

 

 

#某文集にて最期のページに挨拶文を書いた。そのままをコピー&ペースト。

(本当にこういうタイトルなんですよ。最後のページだから)

 

 

 

終わりの挨拶

 

私の好きなもの/パリブレスト/殻付きのヘイゼルナッツ/ジャック・プレヴェール 小笠原豊樹訳「夜のパリ」/プリンタルト/雨の日の黄緑色の傘/iPad/iPhone/詩/しだれ桜/お稲荷さん/銀狐/動物行動学/北原白秋「落葉松」/于武陵「勧酒」井伏鱒二訳/谷川俊太郎「生きているということ」/うな重を家のご飯で食べる/我が道/お菓子の入った綺麗な缶/カレンダー/挿し木した紫陽花の根が出たかどうかひっこ抜いてみること/タイムトラベルものSF(夏への扉、時をかける少女など)/万年筆/南佳孝「昼下がりのテーブル」/Billy Joel「ピアノマン」/観覧車/モノレール/ケーブルカー・ロープウェイ・リフト/東京タワー/旧友と行く花見/時計/離陸した飛行機から見る夜景/自分の言葉を語る人/渦潮/橋/マテガイ掘り/ジグソーパズル/誠実さ/独創的であること/傲慢でないこと/モネ「日傘の女」/ルノアール「イレーヌ嬢」/神社/ハーバード白熱教室/イヤリング/マツダ・ブルー/鈴木英人 (バックミュージック;My favorate thing by Judy Andrews)

 

 

 

 

好きな物を並べてみた。

 

自分を顧みて、思い通りの現在であるか考えてみる。そもそも思い描いたなるべき自分像が、若い日の私に、しかと描けていなかったことが今日私の最大の敗因である。目標がないものは進みようがないではないか。人生で大切なのは「健康、、目標を持つこと、気合い」であると、後進には伝えたい。

 

健康は最も大切なもので、これがないと何も出来ない。健康であるならば目標を持て、そして気合いで乗り切ってゆけ。

「何処に行こうとしているのか分かっていなければ、どの道を通ってもどこにも行けない。」(キッシンジャー)

 

 

 

今年3月無事還暦を迎える。40才の不惑の時も、50才の天命を知る時も、それぞれ法人Nの20周年、30周年と重なっていたはずなのに何も覚えていない。感慨に浸る余裕も、今がその時なのだと自覚する余裕もなかった。食っていくのは、そうした余裕をなくすほど大変だった。N会が次の10年をどのように生きていくのかはひとえにスタッフの皆さんにかかっている。

私はもう子供を手放して、食っていくのに必死にならねばならない年齢を過ぎたが、若い人達はこれからここで仕事をして稼いで食っていかなくてはならない。どうか、頑張って欲しい。

 

N会が無事に50周年を迎えることが出来ますように、祈りを込めて。 

 

平成31年(2019年)3月吉日 (平成の終わりの年に)  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時代は変わった

 

 

静かに見つめてくれ 午後のテーブル

なくした優しさを 並べながら

時代が変わるのを窓から見ていたよ

でも何にも変わってない   そんな気もするのさ

 

「昼下がりのテーブル」/南佳孝)

 

 

#おまえはもう離婚だー! っと怒鳴ったナスカ夫妻はあれからどうなったか? 

というと。

 

まだ一緒に暮らしている。というか、元々カンカンになっているうちに話をつけてしまわないと、人間そう長く怒りを保てるものではない。鬱病気味でごろごろしているうちに時間が過ぎて、暮れから正月にかけて朝も昼も夜も寝ていた。ふて寝ともいう。3日の朝目が覚めると、私は自分が治っているのがわかった。「あ! 治ってる! わたし、治った!」 ・・・やっぱり病気だったな。

 

 

 

#人手不足の折、うちもとうとう外国人労働者に手を出す段取りに入る。4月施行の新しい法律がどうなっているのかあんまりよく知らないけれど、仲介業者がいて、そこに頼み探して貰うことにした。曰く、

「今 面接して来る人を決めてから、ベトナムの日本語学校(お金は内が出す)に8ヶ月ばかりやって、日本にやってきて2ヶ月ばかり業者が研修をさせて」   つまり、来てくれるベトナム人が正式に稼働できるのは1年後なんだそうだ。

「しかもですよ、近年韓国とかアメリカ、カナダが人気で、日本は言葉は日本でしか使えないしどうせ最長10年しか居られないのだから、ということで日本は敬遠されて希望者が減ってるんですよ。」

 

・・・・ううむ。

それで、面接はどこでするのかね?

 

「ベトナムです。」  ええええええっ 行くの? 行かなくちゃいけないの??? この外国嫌いのナスカさんがベトナムへ???

(嫌い、というわけではないが、飛行機に乗らなくてはならないしぃ、、、トイレのたわしでコップを洗う画像なんか見せられると気持ち悪くて。JALでもANAでもない。「ベトナム航空」なんだそうだ・・・・。)

 

「いや、綺麗な街ですよ、パリみたいな。ちゃんとコンビニもあるし、ホテルもあります。サクラホテル。」 サクラホテル!

それはオーナーが日本人なのかね? 別に日本人オーナーじゃなくてもいいけど、誠実な仕事をするところなのかね? ユタには日本っぽい名前のレストランがいっぱいあったが、入ってみるとどうみても日本人の趣味じゃない店内。近隣の国のご趣味かしらというレイアウトの店がいっぱいあった。ただ、あの頃はコンビニなんてなかったなあ。

 

「とにかく水は飲めませんよ、コンビニの水を買って来るか、沸かすかしないと。」

誰かに行かせることも考えたが、一度は自分で行ってみないことには勝手が分からないだろうしなあ・・・・

困ったなあ・・・・ この年で夫も連れずにベトナムかぁ・・・・>え?別れるんじゃないの???

 

 

 

 

#NHKの大河ドラマでいだてんをやると聞いて、時代が変わったんだなあ、とつくづく思った。何より、せごどんの時代写真技術は存在していたが西郷は写真嫌いで本物の写真は一枚もない。それ以前の大河の主人公は比較的近年が背景の橋田壽賀子作品があったが、覚えている限り当人本物の写真が出てきたことはなかった。

今度のは本物のその時代の人の写真がある。なんとフレッシュな!

関係ないが、うちの婿はあの「いだてん」の主人公(坊主頭にした中村勘九郎?)に似ている。初めて見たときは大変失望したが、中村勘九郎に似てると思ったとたん、そんならいいやと思えてしまうから不思議だ。

 

 

と思ったところで、来年の大河は長谷川博己で明智光秀、と聞きがっくり。またあの時代に戻るの? もう良くない?

 

 

 

 

 

#JUGEMはJASRACと 楽曲の歌詞を無料で自由に掲載できるUGCサービスってのを結んでいるのだそうで、歌詞の引用に遠慮は要らないらしい。なかなか気が利いてるやんー>JUGEM

 

ちうわけで、堂々と(笑)

 

 

#孫Aちゃん(2才)の描く絵を見て、この子は天才だと心底思った、バババカ。

 

 

 

 

 

 

ブルーライト博多

 

 

#この慌ただしさでは今年の更新は今やっておかないともう出来まい。

 

#義父母の博多からの運搬は大変だった。今年は最後の方になって私の母のこととか、人生の5本の指に入る正念場が来てしまった。正念場ってのは来ると分かっていれば腹の固めようもあるものを、突っ込んでしまってから大変だァァァァ、というじぇっとこーすたーになってしまうので、私のようにいつも丹田をふらふらさせている人にはボディーブロー一発で昇天だ。

 

16日日曜に博多入りしたが、あれほどすぐ必要な物、その後要る物、後で良い物に分けておくように言っておいたのに全く荷物は出来ていなかった。それどころか作業をするスペースさえ無いほど散らかり放題で、物を踏むか足を打ち付けるかしないと奥までいけないくらい、それはひどいことになっていた。一部屋は電気は点かず私の身長ほどのゴミの山、しかもゴミの山の一番奥のタンスにエルメスのスカーフが2枚あるから取ってきてと曰う。入れませんて、その部屋は! そっと無視した。

 

何しろ入居することになっている有料老人ホームは18平米食事付き(風呂はデイではいるのでついていない)でほぼ20万する。夫婦で月40万だ。義父母はずっと厚生年金と公務員共済で働いたから何とか払えるが、みんなどうしているんだろう???? 18平米といえばホテルのそうきつくないシングルルームがそんなもんだから、そんなに物は持って行けない。私は持って行くなと言っているのではない、自分で要る物と要らない物を分けておいてくれ、と言っているのだ。そんなに変な話だろうか。

 

 

 

とにかく、絶対に必要な下着、タオル、洋服などを中心に私が荷造りした。後は知らない。義父はしっかりしていて、自分のことはちゃんと自分でやってくれた。

 

 

 

 

どうしても市松人形と掛け軸を持って行くと言って聞かない。掛け軸は入るスペースがあったが、市松人形はどうしても入らないので捨てていくことに(私、夫、義弟、)決めた。

 

 

しかし義母は義弟の嫁に泣きつき、(実家が近いので)寄って貰って取ってくるよう頼んだ。

義弟嫁「お姉さん、悲劇的でしたよ、誰も居ないゴミの山の家に一人で行くのはどうしても怖いので、実家の母に

一緒に行って貰ったんです、そしたら母が、『誰かいる! 男が!!』っていうので二人でギャー---!って!そしたら、H子{夫たちの末の妹・実家に出入りしては義父母を殴って怪我させたりお金をせびるので、とうとう兄弟が怒って老人ホームに(しかも私のうちの近くの!!)入れることになったのだ 鍵は取り上げてあった} だってんですよ! 怖かったあ・・・ 市松人形はボロボロで、首がもげるんですよ。」気の毒に。怖かったろう。2階のH子が使っていた部分は、(義父母は足腰が弱く2階は何年も上がっていない)よく報道や雑誌に出てくるようなゴミ屋敷になっていて、1階よりもっと怖くて上がりたくない状態だった。義弟嫁はとにかく首のもげた市松人形とボロボロの着物の胴体をひっつかんで、実家の母親と飛び出してきた。

 

 

 

私は、どうせ年明けには更地にして売ってしまうので(場所が良かったので既に買い手は決まっている)残った中の物は私はびた一文要らないし、誰がどうしてくれようと構わないと思っているのだが、義弟は妹が親に散々迷惑をかけた上に殴る蹴るを繰り返したのがよほど腹に据えかねたようで、「鍵を全部変えて誰も入れないようにしてくれ。」


誰も、と言ってもドロボウも寄りつかないくらい金目の物は一切無いゴミの山なのだ・・・

水もガスも電気も切ってるし・・・・。

浮浪者なら、川のほとりのバラックよりはまあいいかもしれないが・・・。特殊な鍵だそうで替えるのに5万6千円もする。

義弟「5万6千円が何ですか!それくらいあります!」  

ふーーーーん・・・・そんなに怒ってたんだ・・・・・。

1月に入ったらすぐ引き倒すことが決まっているゴミ屋敷に5万6千円の鍵かぁ、勿体ない・・・と思いつつ、私の懐が痛むわけでなし、言われたとおりにする。

 

 

 

 

車は前日に借りておき、4時起きして夫の実家に迎えに行った。義弟が義父母と待っており、11時前には予定のホームに着きたかった。しかし、この行程は予想はしていたことだったがなかなか苦しい旅だった。義母がそろそろ下の始末が怪しくなっていることに初めて気づき、耳が遠くなってこちらの言うことの半分も理解していないことも多かった。高速道路の便器や自分の服を軟泥便で汚し、自分で何とも出来なかったときにはあの家での二人の生活はもう無理だったな、とつくづく思った。頭さえしっかりしていれば在宅での暮らしは何とか成立するし、それが一番幸福だと思うが、頭が怪しくなると無理なのだ。義父は大丈夫でも義母がこれでは義父もSOSを出さざるを得なかっただろう。

 

 

何とか目的地に辿り着き、さしあたって要る荷物を出し、義父母にご飯を食べさせ、忘れ物(肝心の尿取りパットなどがなかった)を買いに走り、役所に書類を提出に行き、東京に戻る義弟を空港に送り、レンタカーを満タンにして返却に行き、もう17時だった。昼ご飯を食べておらず、見回すとマックが。

転がり込んで夫に電話する。事情を話し、

ナ「あと30分であなた仕事終わりでしょ?マックで待ってるから、迎えに来てちょうだい。レンタカー返したから足がないのよ。」

レンタカー屋はちょっとへんぴなところに有り、タクシーは捕まらりそうになかった。夫の所はそこから車で10分もしない。

 

夫「俺行けない。だって、ホームのお父さんに鍵のスペアを届けないといけないから。」

 

 

 

 

はぁぁぁぁっ!? こんな大移動した冬の夜から一体どこに出かけるのだ、あんな足の弱い年寄りが! お義父さんたちは既に鍵を1組持っている。私はあんたの親のために自分の有給を使って朝の4時起きし、昼ご飯を食べる時間もなく働き、やっと今だ。迎えに来て貰ったって罰は当たるまい! 

 

頭にきた。なにやら怒鳴って電話はたたき切ったが、すぐに再度電話し、受付の女の子に「私がものすごく怒っていると言ってちょうだい。迎えは要らない、と言ったってね、いい???? 激怒、だからね!」 

・・・・・・普通はこれで迎えに来るだろ?

 

 

 

しかし、とても勘の悪い彼は来なかった。そして私はそこから3時間かかって歩いた。

怒り、疲れ過ぎて攣り、痙攣し始めた足をさすりさすり、これほど自分が惨めで情けない思いをしたことが今までにあっただろうか? そう考え考え、溢れる涙をふきふき、ティッシュを忘れたので仕方なく手ぬぐいで鼻をかみながら。家に着いたのは乾いた涙が塗り固めた怒りの甲羅になった20時半頃で、既に帰り着いていた夫はにやにやしながら玄関に出てきた。

 

 

私がどれほど怒り心頭だったか彼が分かっていたとは思えない。

雨の博多のコンビニで買った透明な傘を投げ槍のように持ち、夫に向けて力いっぱい投げつけた。左手に持っていた役所で貰った転入の書類も投げつけた。

「あんたっ! 何考えてんのっ!! 今日私を東開町から3時間も歩かせたことを 死ぬまで後悔させてやるわ! おまえは離婚だ! 二度と私にその間抜け面見せるなっ、この大馬鹿野郎がっ!」

 

 

深夜まで気が立って眠れず、お腹も空いてきたのでカップヌードルを食べることにする。取りあえずお腹一杯になり、マジックで書き置きをした。「今日からあなたの食事は作りません。」「今日から朝の挨拶は要りません。」「来週末のお宅の実家の後片付け、私は絶対に行きません。」

 

 

 

 

#この話には続きがあるが、長くなるのでもう止める(笑)

 

 

 

 

#今年もいろいろ御世話になりありがとうございました。

 読んでいただいて本当にありがとう。
 ツイッターでリアクション下さった方もありがとう。
 来年年女、還暦です。
 でも元気です!
 皆様お揃いで良い年をお迎え下さい。