風呂は服を着て入る。

 

#婿のお母さんにごく初期の大腸がんが分かった。手術をしたくないと言っているらしいが、とにかくそうも言ってられないので捕まえて手術することに。しかし気持ちはよくわかる。私ももしそっちの立場だったらどうするだろう。私はもう既に3回も切っているのだ。(帝王切開が2回と胆石症による胆嚢摘出)麻酔が切れるとき頭痛がひどくて、死ぬのとこの頭痛とどっちがきついだろう。

 

近頃冬場の風呂のヒートショックとかで、入浴中に死ぬケースが取りざたされるが、わざと風呂場を寒くしてヒートショックを起こして、入浴中に死ぬというのも悪くない。

 

事務所のK子「でもですよ、・・・裸ですよ? ちょっと恥ずかしいですよ、見つかった時・・・。」

 

なるほど。婆さんになると言われるまでそんなことも思いつかなくなる。っていうか痛くて苦しいより裸で恥ずかしいほうがいいんじゃないかなあ・・・・。

 

だって死んでるんだもん。何の恥ずかしいことがあろうか?

 

やっぱちょっと恥ずかしいか・・・・・。

 


服を着て風呂に入ったらどうだろう? 良い考えじゃない? それ用のデザインを考える。裸になったら体はちゃちゃっと洗い、湯に飛び込んでさっと羽織るように着るバスローブ。

うっかり死んでしまったときのための入浴服。  ・・・・どうだ? 

 

こうなるともう、湯灌も死に装束も要らない。最初から白くしておけば乾いたらそのまま棺に入れてよし! どうだ!

 

 

 

 

#夫と結婚するとき祝いをくれた職場の先輩の奥さんが亡くなったと聞く。

ナ「少しずつ、一つ上の世代に死の波が来て、私たちの足元も波打ち際って感じ、するね。」

夫も同じような感想だったらしく、ただ うん、と頷く。今まで近い年齢の人が亡くなったと聞いても 早世する運だったんだな気の毒に、と思ったけれど、そろそろその運になくてもみんな等しく起きるほど年を取ってきた。

 

 

 

 

 

#事務所のK子さんと話していて。この人は30才過ぎで 一人娘をシングルで育てている。養育費は一銭も貰っていない。

 

K子「ナスカさんは娘さんを薬剤師さんという立派な資格を持たせたのに、それでも万一離婚したとき、やっていけるかどうか心配なんですか?」と聞かれて。

 

ナ「うん。だって・・・・」と言いかけて、はっとした。

 

この時までつきつめて考えたことはなかったが、私はもしもナスコが結婚に失敗して帰ってきたら、その子供たちは自分で育てる気でいる。育てる気まんまんだ。そうしなくてはならないと、思い込んでいる、というか私の中で腹は決まっている。私の心の奥深いところで。ナスコは必ず子供を(向こうにやらずに)連れて帰ってくるだろうし、一人では無理だ。私は物心両面で必死で補佐するだろう。

 

しかし、ナスキの子に対してはそうは思っていない気がする。私が、ナスコの子は私が育てなければならないと強く思えば思うほど、ナスキの子は(離婚することになる)ナスキの奥さんの実家が面倒を見るはずだと思っている。まあ順当に言って子供は母親につくからそう感じるんだろう、と思ってから。

 

あっ、と思った。

 

私はナスコの夫には頭がいい人じゃないと絶対にダメだと言い聞かせてきた。健康で、頭が良くて、性格もよくなければ絶対にダメだ、と。たばこ屋の古い読者はそこのところをよくご承知だろう。

しかし、ナスキの嫁にはほとんど注文がない。「ナスキが良ければそれでいいんじゃない? ただ、頭の悪い嫁からは頭の悪い子が、行儀の悪い嫁からは行儀の悪い子が、体も心も弱い嫁からは弱い子が、浪費家の嫁からは浪費家の子が育つことだけは覚悟しておきなさいよ? あんたは男なんだからうまく行かなければとっとと別れて、次のを探せば?」とだけ言ってあった。

 

理由は 自分でも分からなかった。ただ、そう思った。

 

 

しかし今こそその理由が分かった。今の日本の社会では高校までの学歴で良ければかなり何人でも育てられる。ピアノ、公文、サッカーなどのお稽古ごと、専門学校や私立大学など上の学校にやろうと思ったとき、一気に厳しくなる。年を取った私たち夫婦には、引き取った孫を私立の大学に行かせる余裕はたぶんない。自力で国立大学に入ってもらうしかない。身の回りの離婚した奥さんに聞くと癪に障るほど別れた子供の養育費を払う父親はいない。みんな女が一人で被っている。私の孫が自力で上の学校に行くには、丈夫な心と体と頭を持って生まれてきてくれなくては、誰より私が困るのである。だから父親の資質を要求する。

 

 

しかし、ナスキの子は嫁の実家が見ることになるから なんの、私はそんなことは心配しなくていい。あっちの孫はサヨナラだ。どうでもいいは言い過ぎか。だから、「嫁さんはあんたが気に入った誰でもいいよ」になるのだ。男はいくつになっても子供は出来る。納得のいく奥さんと子供に会えるまで、何度でもやればいい、・・・・と考えて私は心底自分の遺伝子判断の冷たさにびっくりした。こんな複雑なことを頭で考えず、脊髄反射でここは右、左、と決断していたのだ。人間とはなんと本能的な動物なのであろうか。

 

可愛い可愛くないは別にして、ナスコが子供を連れて帰ってくれば私はその子が独り立ちするまで必死で育てるしかない。

 

 

 

 

職場の女の子「じゃあ、娘さんが帰ってきたらナスカさんは一緒に暮らして面倒をみるんですか?」

 

「うん。私が引き取るわ。私が引き取って、娘には次の男に行け、と言う。勿論次の男が見つかってその人が一緒に育ててくれるといえばそうしてもらうし、駄目なら私が一人で(夫と)育てるわ。娘には全力で支えるから、何度失敗してもペケは全部引き受けるから、幸せになるまで(結婚でも独身で仕事でも)、何度でも挑戦せよ、というつもり。」 そうでなければ可愛い娘を他家へ嫁になんかやれない。

 

そういえば私は自分の時も、ここはとにかく来た船に乗ろう、駄目ならやり直せばいい。何度でも。と思っていたっけ。何度でも、何度でも何度でも!

 

 

 

 

 

#孫のA君は、今1歳3ケ月。この年のナスキと比べると少し足が弱い。ナスコにもっと歩かせるよう勧める。色白でひ弱な感じがする。ナスキは1歳の時、100メートルくらい走っていた。言葉はちっとも話さないが、同じ頃のナスキより理解している気がする。天気予報の番組が大好きで、お母さんと一緒、と天気予報が始まるとテレビの前にかけつける。ママが大好き。ババはやきもち焼くくらい。でも彼の実家のお母さんが病気でしかも遠いので、あまり私ばかり仲良くなるのもどうか、と思い、少し離れている。ガラクタが沢山あるので、ママの実家は宝の山だと思っている。かわええ。

 

 

 

 

 

 

 

| - | 09:11 | comments(0) | - | pookmark |
よう来た!

天橋立

 

#このところ少し旅行が続いていた。9月の終わりは日本三景の一つ、天橋立、城崎温泉に行く。なんで天橋立があの地形なのかもう少しちゃんと勉強して行くべきなんじゃないか?>自分。

いろいろ考えたことがあった気がするけど もう忘れたやー(情けない)

 

#五十肩は、年齢が40歳でも60歳でも70歳でも五十肩というんだそうだ。しかしやはり今頃の年が一番痛いのかのう。とにかく肩が痛い。首と、背中と腕も。

 

 

#解散するときに、「負ける気がしない」と言った人いたが、本当にそうだろうか。自民党がどうなのかは分からないけれど、安倍さんはもう飽きられてるよね。良いも悪いもない。飽きたんだから。いずれにせよ安倍は終了だ。

 

 

 

#NHKで「マサとワンボイスクワイヤー」という番組があった。ソルトレイクシティという名前を聞いて思わず番組に見入った。私は5歳と32歳でそれぞれ1年ずつ、父や夫の留学についてその地を訪れた。その、私が去った後のソルトレイクシティに大阪生まれの3歳からピアノを習ったマサという男の子が15歳で留学し、大学生の時、ソルトレイクシティの冬季五輪の際に募集されたテーマ曲が採用され、多くの子供たちによる合唱となった。その後合唱団は子供たちの強い希望により存続し、現在150人の団員を抱え年間40公演を行っているという。全米の合唱コンクールで優勝し、ホワイトハウスで歌った。

 

番組のあとネットで情報を集めてみたら、なんとこの合唱団が10月2日に福岡サンパレスホールで、コンサートに来るという。筑紫女学園110周年記念祭として。なんと。縁があるとはこういうことを言うのだろう。ゆかりの深いソルトレイクシティで、日本人が率いる合唱団が、姪の学校の110年記念祭に来る!・・・・・行かねば!(笑) 呼ばれているような気がした。私はソルトレイクで本当に楽しく過ごさせてもらった。これは是非ともS席を押さえて前列で鑑賞し、子供たちに「よう来た! よう来た!」と拍手喝采してやらねばなるまい。コンサートは月曜日だったので、有休を取ると言いにくかったがどうしても行きたかった。手の空いている友人を誘い、博多まで出かける。

 

コンサートは大変面白く、私は人生の休日を楽しんだ。

 

 

 

#入れ替わりに夫が博多へ出かけた。「高校の最後の大きな同窓会」なんだそうで、帰宅した夫に感想を聞く。

「楽しかったよ。幼稚園から高校までずっと一緒で、家ぐるみ仲良しだったMは、50前に(大手出版社を)辞めて博多に戻っていたよ。不本意な辞め方だったかもな。

K大医学部に行ったTは、2011年の東北大震災の後、開業してたのに病院を閉めて、陸前高田に行ったんだって。僕は医者になってずっとつまらなかったけど、今初めて充実している、って目をキラキラさせて話すんだ。でもそこの院長と喧嘩して、今は岩手のQ市にいるらしいよ。東北の医療事情も少し聞いた。元々医学部は西日本に多くて東日本には少ないんだよ。ところが、今度東北薬科大に医学部ができることになって、医者が教員として沢山引っ張られ、それでなくても少なかった公立、私立の大きなところの病院が手が足りなくなって、小さいところがどんどん閉めてそっちに回ってるんだって。病院を閉めることを奥さんに納得してもらうのに1年かかったって。しかも奥さんは博多に残ったんだってさ。

人はどんどんいなくなっているのに、10メートルも地盤をかさ上げするんだって。大きなマンションをいくつか建ててそこに住めばいいのに、みんな1軒家じゃないと嫌なんだって。子供がいる家はまず戻って来ない。空き家ばかりになって、しばらくぶりに我が家に戻ってみると家財道具が盗まれて無くなってるんだって。報道も、そのままの状況を言えよ、と思うけど、今あの辺を悪くは言えないんだろうね。」

 

うーむ。私なら、東北の桜を見るためだけでも行くがなあ。あの辺りは桜が本当に綺麗ならしい。私の郷里は桜には暑すぎて、あまり良い花は咲かないのだ。人口が減ってなるべくインフラにお金をかけず、人をまとめた方が効率がいいだろうと言われている時代に、イノシシやタヌキや猿のために地盤をかさ上げする政治って、どうなんだろうか。

 

夫「まあ、(奥さんも)春から秋までだけでも付き合ってやればいいのにね。冬は、寒いよ。」 そうか。寒いか。

 

 

そういえば昨日今日、東北以北は最高気温が10度台でびっくりした。こっちは暑くて暑くて、昨日も9月上旬の気温とかで31度の公式発表だったが、車の温度計は35度だった(死んだ)。

 

 

 

 

#ナスコが家を建てるという。うーん もうちょっと郊外に考えればいいのに。(不満)そんな場所に狭い家、借金しょってどうするんだ・・・・。そうこう言ってるうちに彼(ナスコの夫)のママンに重病が見つかり、手術することに。彼は泣いたそうだ。私と似たような年なので、私も心中複雑。家の話は一旦棚上げかな。

 

 

城崎にて

 

 

 

| - | 10:19 | comments(0) | - | pookmark |
散文的に。

 

#最近雑誌の表紙の見出しによく「実家の片付け」が出ている。ご多分に漏れず私もせっせと片付けていると懐かしいレコードが出てきた。大好きだったものなのに母が捨てたというので諦めていた「みかんの花咲く丘」と「山の大尉」は、4歳くらいの私の大のお気に入りだった。

 

 

 

しかし、長じて「山の大尉」を聞き直すと、どうだろう、この歌詞は。国境警備を主な任務とする山岳部隊の大尉は重傷を負い、部下の山岳兵たちにもう一度山で会いたいと言づけてほしいと依頼する。山岳兵が山へ行って何の命令か聞くと、自分の体を5つに切り、1つめは忠誠の印に皇帝へ、二つ目のは連隊へ過ぎた日の想い出に、、3つ目のは母親に息子の兵の想い出として、4つめのは愛人へ初恋の想い出に、5つめのそれは山に、山を薔薇で覆うために、それぞれ届けてくれという意味の歌詞。

 

小さい子が歌うには少し意味がシビア過ぎるし、きつすぎるよね。一体何を考えてこの歌が大好きだったのか今となっては分からない。4つ目を愛人へ 我が初恋の想い出に、の「愛人」「初恋」の(4歳児にとっては)退廃的な響きと、5つめの山を薔薇で覆うため、というのがロマンチックで4歳の子の心をくすぶったのだ。たぶん。近所に聞こえるような大きな声で「靴を履いても履かんでも」と歌うので母が「うちはそこまで(裸足で外を歩き回るほど)貧乏じゃない、靴は履かせてあげてるはずだ」と怒っていた。

 

二木紘三のうた物語「山の大尉」(歌詞・大筋こんな歌です)

 

ある日の山日記から「牧野四子吉さん、文子さんのこと」(このサイトで牧野文子翻訳のイタリア民謡だと知る。歌の翻訳者の素顔が分かることってあまりないから、面白かった)

 

youtube「山の大尉」

 

 

 

 

 

#ピッチをトイレに落としたスタッフが居た。手回し良く 蓋を外して電源を入れずそっと乾かし、乾ききった頃電源を入れたらうまく動いた、という話があって。今度はノートパソコンに、砂糖をたっぷり入れたコーヒーをひっくり返したやつがいて、ピッチの話を聞いていたのでそっと乾かし、1週間くらい経ったころ電源を入れてみたらうまく動いたという。うーーーん これって、トイレに落とした奴は汚い水ではなかったらしいので、まあいいとして、(いいのか?)ノートパソコンの方はどうなんだろう? コーヒーが乾いてねっとりくっついた砂糖が、焦げたり発火したりしないだろうか?と思いつつ、離れるときは必ず電源を落とすように言って、取りあえず使っている。

 

 

 

 

#体が硬くなって、夜寝ているとき寝返りを打ちにくくなっているらしく 目覚めに体のあちこちが痛い。一晩中全く同じ姿勢でいるとも思えないが・・・・。首、肩、腰、腕、とにかくどこもかしこも痛い。湿布を貼ったり薬を飲んだりせんねん灸やらやってみたりしたが、一番効果があったのがストレッチだった。侮るなかれストレッチ。結構即効性もある。痛いもので毎日朝となく夜となく親の仇のようにやっている。昔、体育の先生に 今自分がどこの筋肉を使っているのか意識してやれ、と言われたが、今になって分かる。こういうことだったんだな。(遅過ぎ!)今は痛いから、間違いなくそこの筋肉を意識してストレッチする。私の理解は何十年も遅いんだなあ・・・。若い時のようにぐっすり眠り、爽快に目覚めるということが絶えてない。

 

祖母が「60歳前後は本当にきついけど人の体の調子には波がある。しばらく待てば次の上昇気流が来て、楽になるからね、覚えておきなさい。」と言っていたのを思い出す。「あんたなんか若い人は体のあちこちが痛いって、どういうことか全然分からないだろうねえ」とも。でも何十年も過ぎてその言葉を思い出すと、祖母もこうだったんだなと共感する。祖母は、「しばらく待て」と、これをやり過ごす方法も教えてくれていっている。

 

 

#年度の定例監査が終わり、今年の山を越えた。さて、何しよう?(笑) まず遊ぶ計画を立てなくては。どこへ行こう? 恒例の来年の花見の日程だな、まず。それからこの半年の繁忙期に落とした雑事を片付けておこう。私はあと何年くらい働くのだろう?

 

 週刊ポストの今週号表紙見出しには「政府は75歳からの年金支給にする気」だからそれまでは定年せず働く体制に政府がしようとしていると書いてあった。しかし、働き盛りの30代、40代と肩を並べて働くのは難しいと思う。体は痛み、目も耳も働きが落ち、頭も鈍っていることを日々痛感する。多くの人々の老いていく姿を見ていると老醜という言葉が身につまされる。老美という言葉は、残念ながら無い。

 

 

#孫は可愛い。孫は本当に可愛い。でも私があまりにくっつきすぎて婿の、距離的に遠い実家のご両親よりも孫に近くなり過ぎるとまずいだろうから、近くなり過ぎないようにとも考える。祖母が私にどう感じていたか今は推察できる。ただ、私が生まれた時 私の父方の祖父母は亡くなっていたので、私にとってはたった一人の祖母が 私を可愛がるには 誰の遠慮も要らなかった。

 

その、思い切り可愛がってくれた祖母に、「私とママ(私の母)とどっちが可愛い?」と聞いたら、「私はあんたには責任がないからただ可愛い、可愛がればいいだけだ。あんたに何かある時は親が面倒を見るだろうからね。M子はとても気になる。気になるんだよ、子供だからね。あの子に何かあれば私が何とかしなければならない、私が母親だから。」と言った。

 

なんだ、結局母の方が可愛いのか、とかなりがっかりしたが、単純にそういう意味ではなかったことが、今は分かる。私はどうだろうかと考えれば。 可愛いのは孫の方が可愛い。娘や息子は広義では可愛いと言えるだろうが、可愛いというよりも、彼らのことは私の手とか足とかのように繋がっている体の一部のように感じる。だから可愛いとかいう感情ではないな。自分の手足は別に可愛くはないけど傷むと私が痛い。そういうことなんだ。ナスカ風に言うと。

 

 

 

#ローニャのエンディングテーマの出だしを聞いて、すぐに答え合わせをしたがった妹との夏休みを思い出す。答え合わせをしたい、というよりは答えを見たい、かな(笑)。答えを隠して回るのは私の役目だった。紙を隠さば紙の中、答えを隠さば答えの中。(哲学的!)8月の下旬はいつも、夏休みの宿題の日記の文章を私が考え口述筆記させ、絵は私が描いた。めんどくさかったなあ。天気だけが、どんな天気か思い出せず7月下旬からの新聞のお天気欄を探し回った。分からない日は全部晴れにした(笑)。

 

 

ローニャ エンディングテーマ YouTube

 

 

 

I'm a player 答え合わせは 最後の最後で・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| - | 09:51 | comments(0) | - | pookmark |
突然の来訪者

 

 

#夫の事業所のスタッフから連絡があった。「市の●●会事務局のkさんという方から連絡があって、韓国の方が窓口に来ていらっしゃるそうで、お父様に会いたいと連絡先を探していらっしゃるそうです。小学校、(旧制)二中、七高(旧制第7高等学校)でナスカさんのお父様と同級生だったそうです。●●会の事務局のKという方ですので連絡をお願いします。」 む? なに??? なんだって???

 

 

とにかく●●会事務局に連絡を入れる。

事務局K氏「来られたのはナスカさんのお父様のお友達のJeeさん(仮称)とおっしゃる方で、『ナスカさんのお父さんは亡くなって、事業所はもう閉鎖されて無い、従って行方は分からない。』と申し上げたのですが、『奥さんも娘さん(妹)も医者だったはずだ、彼が死んだとしても事業所が無くなったはずはない、何とか探してもらえないか』とおっしゃってですね。いろいろ当たって、やっとナスカさんに辿り着きました。昔お父様とお親しかったようで、お墓参りなりとも、されたらどうかと思うのですが。」

 

 

ナ「そうですか。了解しました。ソウルに旧友がいる話は確か父から聞いたことがあります。今そちらにいらっしゃるんですか?」

K「それが、1時間ほどいらっしゃったのですが、先ほど諦めて帰られました。」  「え。じゃあ携帯電話とかは?」

K「それも、向こうの携帯電話は日本では使えない設定のものなんだそうです。宿泊先は聞いてあります。Rホテルだそうです。」

ナ「分かりました。ありがとうございます。ホテルに連絡を入れてみます。」

 

というわけでホテルに連絡する。不在だったので、フロントにメッセージを残した。

 

 

 

 

#15時頃彼本人から連絡あり。16時にホテルのロビーで会う約束をする。少し遅刻してエレベータを降りフロントに入ると、それらしい長身のお爺さんがこっちを見た。この人だ!

87歳にしては動作の敏捷な、6、70歳代の感じの身のこなしだった。

 

ナ「Jeeさん(仮称)ですか?」 

Jee氏「はい。H君の娘さんのナスカさん?」 

ナ「はい。」 

耳が遠くもないし、受け答えも60才代の雰囲気。

 

 

Jee氏「僕はH君とは小、中、高とずっと一緒で仲良しだったんです。H君のご自宅に電話をかけてもかけても繋がらなかったので・・・とうとうここまで来たよ。お医者さんだったから●●会に行ったらきっと何かわかると思いました。一旦は、『そのクリニックはなくなっているからわからない、』と言われたんだけど、『奥さんも娘さんも医者だった、何か手掛かりにならないか、』と食い下がったら、『ああ、それなら何かわかるかも、』と言って非常に親切にいろんな資料を探してくれました。1時間くらいかかってやっとあなたの旦那さんの事業所まで電話がつながったんだけどそこから分からなくて。でも、連絡ついた。皆さん、非常に親切だった、非常に、親切にしてもらいました。来た時もね、飛行機で隣に座った人が加治木の人だったんだけど、天文館まで行くから送ってあげるよ、と言ってホテルまで送ってくれたんですよ。有難い。僕はとても運がいい人間なんですよ。

 

 

というわけで、父の墓参りに。台風が来る前の非常に蒸し暑い日で、花を活けてもすぐにしおれそうだと思いながら、ともかく彼を案内し、花を活けて線香を供える。それからホテルまで送りがてら父や彼の子供時代住んでいた家の場所、通った小学校、駅など案内し、父がいつ、どんな最期だったかを話した。

 

ナ「父は、67歳の時、間質性肺炎という予後の悪い病気にかかり、一旦心肺停止の状態になりました。しかし丁度その時母や私の夫が居合わせて、二人とも医者だったので人工呼吸したり気管挿管したりして蘇生し、ICUに入って何とか持ちこたえました。以後10年間、何とか生きたのですが、重い麻痺症状が残り、それでも家には帰れて静かに暮らしていました。数年後、今度は脳梗塞を起こして寝たきりになり、意識がないまま3年ほど生き、最後は敗血症で、77歳で亡くなりました。2007年2月8日の朝のことです。」

 

 

Jee氏は、自分の妻は去年の暮れ、12月31日に筋ジストロフィーで80歳で亡くなった。立派な女だった。見目好く、優しく、センスもスタイルも良くて・・・ 見合いして翌日結婚を決め、60年連れ添ったんだ。そういう連れ合いに死なれると、非常にダメージが大きい。ずっと病気一つしなかったのにあんな病気にかかるなんて・・・。というような話をした。愛妻を病院や施設に入れてしまうのが嫌で、大変だったけれど自宅で看病した、最後気管切開して人工呼吸器を入れるか、という話になったとき、彼が拒否した。それで良かったと思っている。悔いはない、と。そんな話をした。

 

 

つまり彼は妻に死なれた後の自分の心を持て余し、旅に出たのだろう。

 

Jee「運命だよ。私は多くのことは運命だと思う。運命を信じています。」

 

 

 

 

#ナ「それで、子供のころはいつ、どんな事情で日本に来られたんですか?」

 

Jee「7歳の時です。母の父親が、つまり僕の祖父が鹿児島に居たんですよ。それでね、母が日本に行くと言い出したのです。小学校、二中、旧制七高と進学して、九州帝国大学に行くつもりだったのに母が、独裁者ですよ、ああなると。 突然帰国すると言って聞かなくて。僕の父は紳士的な人だったもんだから押し切られたんです。僕なら、家内を押さえられるけどね。僕は、鹿児島で男尊女卑を教えられましたから。これは大変良い思想だ、僕はとてもいいことを日本に教えてもらったと思います。そして僕の男尊女卑に妻はよくついてきてくれました。」(・・・・?。 それって、、、いいのか?)

 

 

Jee氏「お父さんも私も、本当によく勉強しました。僕はね、成績は良かったんですよ。英語が得意で、(旧制)七高でも学年で1番を何度も取った。先生に『Jeeなら、(旧制)1高でも十分上位に行ける』と言われたよ。嬉しかった。韓国に帰ってから、大変苦労しました。働いて一家を支えなくてはならなくて、学費も自分で稼がなくてはならなくて、大学は4年間で通算4ヶ月くらいしか行ってない。行けなかった。でも試験だけは必ず受け、いつも1番だったよ。僕は、試験向きの頭らしくて(笑)どんな試験でも突破する自信があったんだ。(えーっ!)でも、試験向きの頭はお金儲けには全然駄目だったですよ。(あはは)大学を出てね、貿易の会社に就職したんだけど、大卒で英語が出来る人、という条件だったんだ、200人弱の応募で、合格者の2人に入ったよ。」(へえっ 凄い! もう一人通ったんですか? その人はどうなりました?)

 

Jee氏「うん。もう一人合格した。その人は早稲田大学を出た人だった。でも1年後死んだんだよ。肺病でね。」ふーーん・・・。時代だなあ。

 

Jee氏「旧制高校で英語を学んだのは人生のいろんな局面で何度も助けられたですよ。英語を教えて稼いだこともあったしね。その頃、英語ができる人は韓国にはあまりいなかったし、貿易をやるとすれば、日本語、韓国語、英語と3か国語出来るのは非常に力になった。」(ふーん・・・)

 

 

Jee氏「僕にも大学の頃好きな人がいてね。実は振られちゃって、失意のあまり腐って兵役に行ったんだ。(アハハ・・・)その人は40くらいでやもめになって、子供3人連れてアメリカに渡ったんだって。今どうしているのか分からない。

(連絡してみないんですか?)

住所も分からないし、連絡先も分からないよ。正直言ってあなたのお父さんの次に(?)会ってみたい人だなんですよ。でもね、その人の姉弟は4人女、一人男という構成なんだけど、姉妹4人は全員40代でやもめになっちゃってるんだ。韓国には息子が早死にするとそれは嫁の責任だ、ケアが悪いせいだ、という根強い考え方があってね。それは一つには正しいと僕は思ってる。僕はあの人と結婚していたら、きっと今頃もう死んでいるよ、だって4人とも夫が早死になんだからね(笑) 

夫のケアが悪い家なんだよきっと。僕も50くらいの時仕事がとても大変な時期があって、痩せてね、病気になって、体重が50キロを割ったことがあったんですよ。でも妻が本当に優しく懸命に、献身的に世話をしてくれて、やっと治りました。妻が悪かったらあの時死んでると思う。妻には本当に世話になったんだ。

 

 

 

その日はそれで別れた。ナスコが赤ん坊を連れて夕方やってくることになっていたからである。いつ帰国か聞いたら5日水曜の昼の便、とのこと。何とかそれまでにどこかで都合をつけたい。

 

夜、ナスコに会って今日の話をした。

ナスコ「ままってさぁ、本当にその日何が起きるか分からない人生を送る運の人だね。だって、私なんてきっと死ぬまで生きても、ある日突然見ず知らずの外人がやってきて『お父さんの親友です、』なんてことは起こらないと思うよ。」  

 

ギャハハ・・・・うん。私もそう思う。

 

 

 

 

 

#5日水曜の午前中何とか時間を空けてホテルへ迎えに行く。空港まで送ると連絡をしてあった。父から継いだ今の事業所を時間の許す限り簡単に案内する。

 

Jee氏「お父さんこんなものを作っていたんだ・・・。素晴らしい遺産だね。社会に貢献する仕事だよ。見せて貰って本当に良かった。お父さんと会えなかったのは本当に残念だった。僕らは本当に仲良しだったんだ、君のお父さんはおばあさんと二人で大きな家に暮らしていた。よく夜遅くまで喋り、将棋をしたよ。その後帰国した僕はついに70年、今回まで日本の地を踏むことはなかった。

 

お父さんは38年前に一度ぶらっとソウルに来たんだよ。突然電話があって、ちょうどあなたが大学に入ったころだ。『娘が大学に入って仕送りをしている。細かい家計簿をつけて毎月送るように、そして納得できないものにお金は出さない、と言ってある』と言ってた。厳しいけれど、慈愛に満ちたお父さんだったよね? 僕は貿易の仕事をしていたが、なかなか思うに任せず、お金儲けは出来なかった。・・・しかしお父さんはあの時どうして急にソウルに来ようと思ったのかな。何かあったかい? 彼はあの時何も言わなかったが、突然電話がありぶらっとやってきて、一晩酒を酌み交わし、語り明かしたんだ。」

 

私には父のことはよくわからなかった。ただ私が家を離れたので子育てが一段落した感があってほっとしたのだろうと思う。父がソウルに行ったことは母からちらっと聞いたことがあった。

 

 

今にして思えばJees氏は19歳で帰国してソウルで生き、父は鹿児島で生きた。38年前ソウルで1度だけ会い、別れたのが結局Jee氏と父との今生の別れとなった。

 

 

彼は言葉にしなかったが、タイミング悪く日本と韓国を行き来しなくてはならなくなり、損失感を終生抱えて生きることを余儀なくされた。頭も良かったし努力家でもあったから、そのまま日本に残ればそこそこ成功しただろう。無念な気持ちは隠せない。戦前、太平洋戦争を日本で経験し、生き延びてさてこれからという時の引っ越しは言葉に尽くせぬ不本意があったと思う。変なタイミングで国を動いた、そのディスアドバンテージからはなかなか回復出来なかった。日本にいれば異邦人という、国に帰れば日本で育った奴という根強いdiscriminationがあったと思う。

 

 

 

父は、幼少の頃 両親と生・死別して祖母と二人寂しい不遇の生活を送っていた。

Jee「お父さんの家は、敷地は広く、大きな家だったよ、1000坪はあったろう。」

Jee氏はそう言ったが、父は後年、田畑、貸家はあったがお金はなく、もう年でいつ死ぬか分からない無学文盲の年寄りの祖母と二人とても寂しく、婆さんが死んだら俺は本当に一人ぼっちだ、どうなるんだろうと思うととにかく心細かった、親のいる人が羨ましくて羨ましくてたまらなかった、と言っていた。異郷の少年の孤独と親がいない少年の孤独が微妙にシンクロ、共鳴したと思う。そして二人は励ましあって、不退転の覚悟で必死で勉強したのだろう。身を立てるために。

 

 

 

 

同じような痛みを分かち合い、彼らは親しくなったのだろうと想像に難くない。父は大学の友人の名前はたくさん話したが、小、中、高の時の話は殆どしなかった。大学はみんな親元を離れるが、小、中、高はみな親元から学校に行くので、あまり思い出したくなかったのだと思う。ただ、私には自分が子供のころ親がなくてどんなにか辛かったということを、祖母と二人の暮らしがどんなに寂しく心細かったかを何度も何度も何度も繰り返し話した。

「お前はいいなあ。お父さんとお母さんが揃っていて、いいなあ。」 私の耳にタコが出来るくらい口にした。

父に子供のころの写真を見せてほしいと言ったとき、

「俺には写真を撮ってくれる親はいなかったんだよ」とポツリと呟いたのを今もはっきり覚えている。

 

 

 

 

 

#空港。12時00分発の飛行機を待つ出発ロビーにて。あまり広くないロビーのソファに座り、最後に少しJee氏と話す。

 

 

 

ナ「どうか、お元気で。また来て下さい。長い間、父と仲良くして下さって、本当にありがとうございました。」と言ったとたんに、急に胸がいっぱいになり、涙が落ちた。父が降りてきた気がした。この人がいてくれて父の孤独はどんなにか支えられたはずだ。父の気持ちを代弁するとすれば、あの寂しかった子供時代にJeeが居て仲良く遊んでくれて本当にありがとうというに尽きる。父の形見に、渡そうと持ってきた元気なころの父の写真と事業所の写真、父が大切にしていた第7高等学校造館「北辰斜めに」が載っている旧制高校の寮歌集を渡した。

 

 

年を取ると、この人と会うのはこれが最後かもという気持ちが胸を突く。ネットやメールを使う人なら、続きはネットでね、と別れることができるけれど、この年の人ではそれも出来まい。


 

 

私は普通の日本人で、今の韓国が日本のことを攻撃してくるのを苦々しく思っている。しかし彼のような韓国人もいるのだと改めて思う。ソルトレイクシティでジーサン・ハンと仲良くなった時のように。

「僕は日本と韓国は仲良くしていかなければならないと思うよ。同じアジアで隣同士なのだから。」 

 

 

 

 

 

#この人にまた会うことがあるだろうか。90歳近い年齢のこの人に。

 

ナ「お、お別れが寂しくて涙が出てきました。」

 

この人には、もう会えまい。

 

 

Jee氏「君に会えて、本当に良かった。旅の目的は100%果たせたよ。会えていなかったら本当に寂しい、哀しい気持ちの帰国になっていただろう。君は私の娘のようだよ。私の娘にもよく似ている。ではまた。元気だったらまた来るから。」

 

ナ「時々は、手紙を、下さい。」

 

Jee氏「うん。では、ね。」

 

 

別れに涙は不吉なり。

 

 

彼はハグして立ち上がり、デッキに向かう。

私は伸ばした両腕を大きく振り続けた。

 

「さようなら!さようなら!お元気で。」父の代わりに。ここに父が居たらほんとに良かったんだけど。

 

「さようなら!さようなら!お元気で。」本当にありがとう! 

 

出国のゲート。青いヤッケ姿の彼は一度振り返り手を振って、次の部屋へ消えた。

 

 

 

 

 

 

 

#3時。事務所にいると携帯が鳴る。家に着いた彼からだった。

 

なんだ。もうお家に帰ったの??? 永遠の別れをしたかと思ったのに(爆笑)

 

たった3時間しか経っていないのに、ほんのさっき一緒に居た彼が、もうソウルの自宅にいる。不思議な気がした。アジアは本当に狭いのだ。

 

 

「あなたの事業所も見せて貰って本当に良かった。お父さんは立派な、社会貢献する仕事をして行ったんだね。きっと天国に行けたな。人のために働いたのだから。彼は地獄にはいないよ。お父さんに恥じない仕事をしていきなさい。では、さようなら。さようなら。」

 

 

・・・・・さようなら。

 

 

 

 

 

| - | 14:11 | comments(0) | - | pookmark |
海霧の彼方に

 

開店休業 たばこ屋ダイアリー

 

 

 

 

#ちょっと懐かしい人は古いたばこ屋のお客さん(笑)ハートの透過に失敗してるね。もう出来ん。

 

 

パソコンの引っ越しをした。データの移行は今時殆どPCに保存せず、クラウドか自分のメモリースティックにしているので、新しいのに使うソフトを入れればよい。昔と比べると格段に簡単になった。

 

と、思っていたらたばこ屋のことをすっかり忘れていた。忘れて前のPCのアカウントを潰してしまったので、もうだめかと思ったが、他のデータとは別にたばこ屋だけはone Noteにバックアップしていたので、全てではないがかなりの部分は回収できた。しかし、久しぶりに見てみるとOneNoteは私には使いにくい。他のデータとごっちゃになるのを避けるため、たばこ屋は別にしていたが、普段私はエバーノートを使っているのでたばこ屋もそちらに移すかなあと考慮中。

 

そんなこんなで久しぶりに、20年ばかり前の初期の、web日記だった頃のダイアリーをご開帳で日干しする。うーむ・・・・ みんなよくこんなの読んでくれたな(爆笑) 写真にしろ文章にしろ、我ながらひどい。恥ずかしさのあまりギャーと叫びながら走り回りたくなる。しかしまあ、目を覆うような恐ろしく幼稚なやつも、1年半から2年くらいすると何とかみられる状態になっていた。うーむー。ただ、今時のブログにはない素朴な味のアナログさがあった。少しだけエバーノートに移してみたが、気が遠くなるような作業で、もう捨ててもいいか、と思いながらパラパラ見る。

 

と。面白いのもある。例えばこんなん。

2001年10月20日の分である。

 

 

ーーーーー(引用)

ナスコ「まま。あのね、一年の時友達だった5組のKさんなんだけど。同じクラスの友達の筆箱盗んだんだって。どう思う?」 

 

ふうむ。去年、あんたと仲良しだったの? ナスコ「うん。一緒に街に出かけたりしたことある。」 どういう状況だったの? 「うーんと、ある人の筆箱がなくなって、みんなで自分のバッグを見てみよう、って一人ずつ見ていったらKさんの補助バッグに入ってたんだって。」 おやまあ。で、Kさんどうした? 「私知らない、って泣いたんだって。」

 

ふーん。「ままねえ、それ、Kさんじゃない感じがするな。そういうのを「はめられた」って言うんだよ。その話だけではわからないけれどね。今ごろの子が、しかもF中の子が店で盗んだと言うならありそうだけど、人の筆箱を欲しくて盗るとは思えないなあ。「一人ずつ自分のバッグを見てみようじゃないか、」と言った子が、一番怪しいような気がする。誰かの悪意が働いてる感じがするよ。Kさん自身も油断があったろうよ。ちょっと元気のいい子だったから、人に妬まれたり、人の気持ちを思いやらなかったりしたことがあったのかも知れないねえ。

 

いずれにしろ、あんたには関係ない話なんだから近付きなさんなよ? 危険かどうか分からないときは近づかないの、いつも何が危険なのかよく考えて行動するのよ。『君子危うきに近寄らず、だよ。』ってひぃおじいちゃんがいつも言ってた。自分の旗色をはっきりさせるのはそうしなければならない時だけ。だけどもし、Kさんに相談されるような事があったら、「必ず時が解決するはずだから気を落とさずに辛抱しなさい」と励ましてあげなさい。あんたたちの年ごろは特に、ほんの数カ月で運が変わるんだからね。ナスコも油断しなさんなよ?」

 

処世術みたいなことを教えるのも気が引けるが、正論ばかり吐いて生きられないことも親は知っている。特にナスコは今、将来の自分の基準となるものの見方を私に聞いてくる事が多いので慎重に答えることにしている。将来、この子は私の言葉をもとでに、あらゆる場面に対処して行くだろう。種を蒔いている事を感じながら、用心深く話す。ーーーーー(引用ここまで)

 

 

なかなか、しっかり母親してるじゃんわたし。

 

 

 

*それから同じく2001年。1月20日のくだり。

 

ーーーー(引用)午前中仕事を終えて幼稚園にナスキを迎えに行く。下駄箱のところでナスキを待っていると、ナスキのクラスだけやけに遅い。どうしたのかなと思っているとやっと出てきた男の子が言った。

「あ。ナスキ君のおばちゃん!ナスキくんねえ、今日先生に怒られたんだよ。女の子のトイレ覗き見したの!!」 まあ!

青い顔をしたナスキがノロノロと出てきた。正直なやつだ・・・。

 

ナ「ナスキ、あんた どうかしたの? 顔青いよ。 先生に叱られたんでショー。 何したの?」  

「・・・・・・・どうして知ってるの?」   

ナ「顔に書いてあるよ。先生に叱られた、って。」  

ナスキ「あのねえ、女の子が僕の髪をヒッパテねえ、そいで、あんたってサイテー、って言ったの、そいで、、、、」  

ナ「ナスキ? ままに嘘ついたね? あんたはそんな子じゃないと思ってたのに。あんた、今日女の子のトイレ覗いたでしょう! そいで先生に叱られたでしょう!みっともない。下品なことして!」 

 

ナスキは真っ青になってしまった(笑)

ナ「ナスキ。駄目だと言われていることはしたら駄目よ。おまけに ままに嘘までついて! もうしなさんな? 分ったね。」  ナスキ「はい・・・・。」


 

しょんぼりしてしまったナスキがかわいそうになって

ナ「今日はナスコはお弁当だし、ままとマックに行こうか?」

ナスキ「うん!」  

ナスキがほっとしたようににっこり笑った。ーーーー

 

 

ちょっと甘い母親だったか・・・。

 

でも、この二つのことは全く忘れていた。やっぱ捨ててしまうのは惜しいか。

将来仕事辞めて暇になったら、ぼちぼち読もうか。

 

 

 

 

 

 

#妹と二人で、亡くなった父の部屋を片付けた折に、父が貯めていた郵便局の記念切手が沢山出て来た。父は自分では別に好きでもなんでもなかったと思うが、私や妹に「わー!すごい!!」と言わせたかったのである。時々出して見せびらかしては、一つやろうか?欲しかったらパパのために●●しろ。」という形で使っていた。私が小学生の頃は切手収集が趣味として流行っていた時もあった。将来高値で売れるぞ、という欲も、勿論あった。しかし今時は収集する話は聞かないし、持ち込んでも安値でしかとってもらえない話も聞こえてきていた。古切手屋に知り合いはいないし、さてどこでどうしたもんか。

 

 

妹が来た時に相談。取りあえず3万円分くらい持っていって、良さそうな店を物色することにする。店を決めたらそこで残りも売り捌く。

最初の店は駅の近くの骨董屋。グーグルマップでは現在地から一番近い。何度か店の前を通りかかったことがあり、変わったシーサーとか大きなフランス人形が飾られているのを、こんなん誰が買うんかなと思っていた。店の感じでは資金繰りが苦しそうではなかった。

 

ごめん下さい、といろんなものがごったに並んだ店の狭い通路を入り、カーテンが張ってあるレジと思しき辺りに踏み込む。そこには男の人が居たが、下着のシャツにステテコ姿で手には大振りの刀!! 研いでいるのであった。 ひ、ひぇ〜っ! この人がキチガイならかなり危ない。妹に合図を送るがこれが鈍くてあまり役に立たない。ダイアリーにいい絵が撮れそうだったが写真を撮りたいという勇気はとても無かった。

 

ナ「切手を、売りに来たんですけど。」

ステテコのおじさんは面倒くさそうに立ち上がり、どれ、と検分する。

「切手はねえ、60%から70%が相場よ。うちに売るなら60パーセントね。結局、宅急便を送ったりするときにこれを貼って送るのが一番損がないよ。」 えーーっ 最悪でも額面から5〜10パーセント安かなと思っていたのでかなり落胆。

 

店を出、妹と作戦を立て直す。

「販売ルートを持ってるところじゃないと駄目かも。店舗をいくつも持っててさ。イオンの中の●●屋に行ってみよう。」

イオンの中の●黒屋は、さすがにきっちり印刷した紙片を取り出して、何がいくら、何がいくらと示した。それによると記念切手は60パーセント、普通切手は70パーセント、80円以下の切手は50パーセント、となっていた。

 

ナ「何で?何で記念切手が安いの?」

 「さあ。そういうことに、なっているんですよ。」  ・・・・・。これは?恐る恐ると引っ張り出した厚みにして2センチくらいのテレカは「引き取りません。」これは?と引っ張り出した記念コインも「引き取りません。」・・・・orz

 

 

もう一軒、なんちゃらスタンプ、という切手販売の店に行ってみることにした。スタンプ、と標榜するからには、切手専門だろうから高値がつくかもしれない。

ナンチャラスタンプ、は市内の繁華街から遠くないところ、公社ビル、と地元で呼ばれている古い建物の1Fにあった。切手専売の店かと思ったがそれではとても食えないらしく、切手のショーケースなんか一つもない。狭い店舗にあまり高くない田舎の洋服とか、雑貨、文房具を主に置いている店だった。

 

 

 

出て来た70代とおぼしきの品のいいおじさんは、

「切手はねえ、70%です。売れないんですよ。切手は今後50年100年、永遠に値打ちが上がることはありません。今は学校教育がなってないでしょう?ああいうのは、子供のころの経験が大事なんですよ。 楽しみ方、こんなのがその時代使われていたんだなと想像する楽しさ、そういうものは昔は全て学校で覚えて来たものなんです。でも今はそんなの学校では全く教えていないですからね。ゲーム以外はしない、売れない世の中なんです。

 

昔、お医者さんたちがいつか値が上がると言って集めていた絵画、骨董、ツボとか、刀剣など全部だめですよ。よほどのものでないと値は付きません。もしも何か投機的なことをやるなら、金です。それも地金ね。金の地金。細工がしてあったり字が書いてある程度でもダメです。まっさらの地金でないと。」

 

ふーーーーん? そういえば割と最近博多でスーツケースに金を詰めてどうのこうのって話があったっけ。

 

 

 

妹と私は更に落胆して、今日の分をそこで売ってしまうことにした。2万4千円分が1万6千円になっていた。

 

 

 

ナ「だけどさあ、ちょっと勉強になったね。」

妹「うん。」

ナ「まあ、仕方ないよ。」

妹「・・・うん。」

 

はて。まだ10万円分近くあるんだけど、どうしようか・・・・。1軒めのステテコの親父が言ったように、小包をゆうぱっくで送ってそれに切手を使うのが一番いいかなあ。しかし、そんなに荷物って送らないしなあ。

 

 

 

#海霧の彼方に、風車はゆっくりと回っていた。

 

 

 

 

 

 

 

| - | 09:06 | comments(0) | - | pookmark |