散文的に。

 

#最近雑誌の表紙の見出しによく「実家の片付け」が出ている。ご多分に漏れず私もせっせと片付けていると懐かしいレコードが出てきた。大好きだったものなのに母が捨てたというので諦めていた「みかんの花咲く丘」と「山の大尉」は、4歳くらいの私の大のお気に入りだった。

 

 

 

しかし、長じて「山の大尉」を聞き直すと、どうだろう、この歌詞は。国境警備を主な任務とする山岳部隊の大尉は重傷を負い、部下の山岳兵たちにもう一度山で会いたいと言づけてほしいと依頼する。山岳兵が山へ行って何の命令か聞くと、自分の体を5つに切り、1つめは忠誠の印に皇帝へ、二つ目のは連隊へ過ぎた日の想い出に、、3つ目のは母親に息子の兵の想い出として、4つめのは愛人へ初恋の想い出に、5つめのそれは山に、山を薔薇で覆うために、それぞれ届けてくれという意味の歌詞。

 

小さい子が歌うには少し意味がシビア過ぎるし、きつすぎるよね。一体何を考えてこの歌が大好きだったのか今となっては分からない。4つ目を愛人へ 我が初恋の想い出に、の「愛人」「初恋」の(4歳児にとっては)退廃的な響きと、5つめの山を薔薇で覆うため、というのがロマンチックで4歳の子の心をくすぶったのだ。たぶん。近所に聞こえるような大きな声で「靴を履いても履かんでも」と歌うので母が「うちはそこまで(裸足で外を歩き回るほど)貧乏じゃない、靴は履かせてあげてるはずだ」と怒っていた。

 

二木紘三のうた物語「山の大尉」(歌詞・大筋こんな歌です)

 

ある日の山日記から「牧野四子吉さん、文子さんのこと」(このサイトで牧野文子翻訳のイタリア民謡だと知る。歌の翻訳者の素顔が分かることってあまりないから、面白かった)

 

youtube「山の大尉」

 

 

 

 

 

#ピッチをトイレに落としたスタッフが居た。手回し良く 蓋を外して電源を入れずそっと乾かし、乾ききった頃電源を入れたらうまく動いた、という話があって。今度はノートパソコンに、砂糖をたっぷり入れたコーヒーをひっくり返したやつがいて、ピッチの話を聞いていたのでそっと乾かし、1週間くらい経ったころ電源を入れてみたらうまく動いたという。うーーーん これって、トイレに落とした奴は汚い水ではなかったらしいので、まあいいとして、(いいのか?)ノートパソコンの方はどうなんだろう? コーヒーが乾いてねっとりくっついた砂糖が、焦げたり発火したりしないだろうか?と思いつつ、離れるときは必ず電源を落とすように言って、取りあえず使っている。

 

 

 

 

#体が硬くなって、夜寝ているとき寝返りを打ちにくくなっているらしく 目覚めに体のあちこちが痛い。一晩中全く同じ姿勢でいるとも思えないが・・・・。首、肩、腰、腕、とにかくどこもかしこも痛い。湿布を貼ったり薬を飲んだりせんねん灸やらやってみたりしたが、一番効果があったのがストレッチだった。侮るなかれストレッチ。結構即効性もある。痛いもので毎日朝となく夜となく親の仇のようにやっている。昔、体育の先生に 今自分がどこの筋肉を使っているのか意識してやれ、と言われたが、今になって分かる。こういうことだったんだな。(遅過ぎ!)今は痛いから、間違いなくそこの筋肉を意識してストレッチする。私の理解は何十年も遅いんだなあ・・・。若い時のようにぐっすり眠り、爽快に目覚めるということが絶えてない。

 

祖母が「60歳前後は本当にきついけど人の体の調子には波がある。しばらく待てば次の上昇気流が来て、楽になるからね、覚えておきなさい。」と言っていたのを思い出す。「あんたなんか若い人は体のあちこちが痛いって、どういうことか全然分からないだろうねえ」とも。でも何十年も過ぎてその言葉を思い出すと、祖母もこうだったんだなと共感する。祖母は、「しばらく待て」と、これをやり過ごす方法も教えてくれていっている。

 

 

#年度の定例監査が終わり、今年の山を越えた。さて、何しよう?(笑) まず遊ぶ計画を立てなくては。どこへ行こう? 恒例の来年の花見の日程だな、まず。それからこの半年の繁忙期に落とした雑事を片付けておこう。私はあと何年くらい働くのだろう?

 

 週刊ポストの今週号表紙見出しには「政府は75歳からの年金支給にする気」だからそれまでは定年せず働く体制に政府がしようとしていると書いてあった。しかし、働き盛りの30代、40代と肩を並べて働くのは難しいと思う。体は痛み、目も耳も働きが落ち、頭も鈍っていることを日々痛感する。多くの人々の老いていく姿を見ていると老醜という言葉が身につまされる。老美という言葉は、残念ながら無い。

 

 

#孫は可愛い。孫は本当に可愛い。でも私があまりにくっつきすぎて婿の、距離的に遠い実家のご両親よりも孫に近くなり過ぎるとまずいだろうから、近くなり過ぎないようにとも考える。祖母が私にどう感じていたか今は推察できる。ただ、私が生まれた時 私の父方の祖父母は亡くなっていたので、私にとってはたった一人の祖母が 私を可愛がるには 誰の遠慮も要らなかった。

 

その、思い切り可愛がってくれた祖母に、「私とママ(私の母)とどっちが可愛い?」と聞いたら、「私はあんたには責任がないからただ可愛い、可愛がればいいだけだ。あんたに何かある時は親が面倒を見るだろうからね。M子はとても気になる。気になるんだよ、子供だからね。あの子に何かあれば私が何とかしなければならない、私が母親だから。」と言った。

 

なんだ、結局母の方が可愛いのか、とかなりがっかりしたが、単純にそういう意味ではなかったことが、今は分かる。私はどうだろうかと考えれば。 可愛いのは孫の方が可愛い。娘や息子は広義では可愛いと言えるだろうが、可愛いというよりも、彼らのことは私の手とか足とかのように繋がっている体の一部のように感じる。だから可愛いとかいう感情ではないな。自分の手足は別に可愛くはないけど傷むと私が痛い。そういうことなんだ。ナスカ風に言うと。

 

 

 

#ローニャのエンディングテーマの出だしを聞いて、すぐに答え合わせをしたがった妹との夏休みを思い出す。答え合わせをしたい、というよりは答えを見たい、かな(笑)。答えを隠して回るのは私の役目だった。紙を隠さば紙の中、答えを隠さば答えの中。(哲学的!)8月の下旬はいつも、夏休みの宿題の日記の文章を私が考え口述筆記させ、絵は私が描いた。めんどくさかったなあ。天気だけが、どんな天気か思い出せず7月下旬からの新聞のお天気欄を探し回った。分からない日は全部晴れにした(笑)。

 

 

ローニャ エンディングテーマ YouTube

 

 

 

I'm a player 答え合わせは 最後の最後で・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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突然の来訪者

 

 

#夫の事業所のスタッフから連絡があった。「市の●●会事務局のkさんという方から連絡があって、韓国の方が窓口に来ていらっしゃるそうで、お父様に会いたいと連絡先を探していらっしゃるそうです。小学校、(旧制)二中、七高(旧制第7高等学校)でナスカさんのお父様と同級生だったそうです。●●会の事務局のKという方ですので連絡をお願いします。」 む? なに??? なんだって???

 

 

とにかく●●会事務局に連絡を入れる。

事務局K氏「来られたのはナスカさんのお父様のお友達のJeeさん(仮称)とおっしゃる方で、『ナスカさんのお父さんは亡くなって、事業所はもう閉鎖されて無い、従って行方は分からない。』と申し上げたのですが、『奥さんも娘さん(妹)も医者だったはずだ、彼が死んだとしても事業所が無くなったはずはない、何とか探してもらえないか』とおっしゃってですね。いろいろ当たって、やっとナスカさんに辿り着きました。昔お父様とお親しかったようで、お墓参りなりとも、されたらどうかと思うのですが。」

 

 

ナ「そうですか。了解しました。ソウルに旧友がいる話は確か父から聞いたことがあります。今そちらにいらっしゃるんですか?」

K「それが、1時間ほどいらっしゃったのですが、先ほど諦めて帰られました。」  「え。じゃあ携帯電話とかは?」

K「それも、向こうの携帯電話は日本では使えない設定のものなんだそうです。宿泊先は聞いてあります。Rホテルだそうです。」

ナ「分かりました。ありがとうございます。ホテルに連絡を入れてみます。」

 

というわけでホテルに連絡する。不在だったので、フロントにメッセージを残した。

 

 

 

 

#15時頃彼本人から連絡あり。16時にホテルのロビーで会う約束をする。少し遅刻してエレベータを降りフロントに入ると、それらしい長身のお爺さんがこっちを見た。この人だ!

87歳にしては動作の敏捷な、6、70歳代の感じの身のこなしだった。

 

ナ「Jeeさん(仮称)ですか?」 

Jee氏「はい。H君の娘さんのナスカさん?」 

ナ「はい。」 

耳が遠くもないし、受け答えも60才代の雰囲気。

 

 

Jee氏「僕はH君とは小、中、高とずっと一緒で仲良しだったんです。H君のご自宅に電話をかけてもかけても繋がらなかったので・・・とうとうここまで来たよ。お医者さんだったから●●会に行ったらきっと何かわかると思いました。一旦は、『そのクリニックはなくなっているからわからない、』と言われたんだけど、『奥さんも娘さんも医者だった、何か手掛かりにならないか、』と食い下がったら、『ああ、それなら何かわかるかも、』と言って非常に親切にいろんな資料を探してくれました。1時間くらいかかってやっとあなたの旦那さんの事業所まで電話がつながったんだけどそこから分からなくて。でも、連絡ついた。皆さん、非常に親切だった、非常に、親切にしてもらいました。来た時もね、飛行機で隣に座った人が加治木の人だったんだけど、天文館まで行くから送ってあげるよ、と言ってホテルまで送ってくれたんですよ。有難い。僕はとても運がいい人間なんですよ。

 

 

というわけで、父の墓参りに。台風が来る前の非常に蒸し暑い日で、花を活けてもすぐにしおれそうだと思いながら、ともかく彼を案内し、花を活けて線香を供える。それからホテルまで送りがてら父や彼の子供時代住んでいた家の場所、通った小学校、駅など案内し、父がいつ、どんな最期だったかを話した。

 

ナ「父は、67歳の時、間質性肺炎という予後の悪い病気にかかり、一旦心肺停止の状態になりました。しかし丁度その時母や私の夫が居合わせて、二人とも医者だったので人工呼吸したり気管挿管したりして蘇生し、ICUに入って何とか持ちこたえました。以後10年間、何とか生きたのですが、重い麻痺症状が残り、それでも家には帰れて静かに暮らしていました。数年後、今度は脳梗塞を起こして寝たきりになり、意識がないまま3年ほど生き、最後は敗血症で、77歳で亡くなりました。2007年2月8日の朝のことです。」

 

 

Jee氏は、自分の妻は去年の暮れ、12月31日に筋ジストロフィーで80歳で亡くなった。立派な女だった。見目好く、優しく、センスもスタイルも良くて・・・ 見合いして翌日結婚を決め、60年連れ添ったんだ。そういう連れ合いに死なれると、非常にダメージが大きい。ずっと病気一つしなかったのにあんな病気にかかるなんて・・・。というような話をした。愛妻を病院や施設に入れてしまうのが嫌で、大変だったけれど自宅で看病した、最後気管切開して人工呼吸器を入れるか、という話になったとき、彼が拒否した。それで良かったと思っている。悔いはない、と。そんな話をした。

 

 

つまり彼は妻に死なれた後の自分の心を持て余し、旅に出たのだろう。

 

Jee「運命だよ。私は多くのことは運命だと思う。運命を信じています。」

 

 

 

 

#ナ「それで、子供のころはいつ、どんな事情で日本に来られたんですか?」

 

Jee「7歳の時です。母の父親が、つまり僕の祖父が鹿児島に居たんですよ。それでね、母が日本に行くと言い出したのです。小学校、二中、旧制七高と進学して、九州帝国大学に行くつもりだったのに母が、独裁者ですよ、ああなると。 突然帰国すると言って聞かなくて。僕の父は紳士的な人だったもんだから押し切られたんです。僕なら、家内を押さえられるけどね。僕は、鹿児島で男尊女卑を教えられましたから。これは大変良い思想だ、僕はとてもいいことを日本に教えてもらったと思います。そして僕の男尊女卑に妻はよくついてきてくれました。」(・・・・?。 それって、、、いいのか?)

 

 

Jee氏「お父さんも私も、本当によく勉強しました。僕はね、成績は良かったんですよ。英語が得意で、(旧制)七高でも学年で1番を何度も取った。先生に『Jeeなら、(旧制)1高でも十分上位に行ける』と言われたよ。嬉しかった。韓国に帰ってから、大変苦労しました。働いて一家を支えなくてはならなくて、学費も自分で稼がなくてはならなくて、大学は4年間で通算4ヶ月くらいしか行ってない。行けなかった。でも試験だけは必ず受け、いつも1番だったよ。僕は、試験向きの頭らしくて(笑)どんな試験でも突破する自信があったんだ。(えーっ!)でも、試験向きの頭はお金儲けには全然駄目だったですよ。(あはは)大学を出てね、貿易の会社に就職したんだけど、大卒で英語が出来る人、という条件だったんだ、200人弱の応募で、合格者の2人に入ったよ。」(へえっ 凄い! もう一人通ったんですか? その人はどうなりました?)

 

Jee氏「うん。もう一人合格した。その人は早稲田大学を出た人だった。でも1年後死んだんだよ。肺病でね。」ふーーん・・・。時代だなあ。

 

Jee氏「旧制高校で英語を学んだのは人生のいろんな局面で何度も助けられたですよ。英語を教えて稼いだこともあったしね。その頃、英語ができる人は韓国にはあまりいなかったし、貿易をやるとすれば、日本語、韓国語、英語と3か国語出来るのは非常に力になった。」(ふーん・・・)

 

 

Jee氏「僕にも大学の頃好きな人がいてね。実は振られちゃって、失意のあまり腐って兵役に行ったんだ。(アハハ・・・)その人は40くらいでやもめになって、子供3人連れてアメリカに渡ったんだって。今どうしているのか分からない。

(連絡してみないんですか?)

住所も分からないし、連絡先も分からないよ。正直言ってあなたのお父さんの次に(?)会ってみたい人だなんですよ。でもね、その人の姉弟は4人女、一人男という構成なんだけど、姉妹4人は全員40代でやもめになっちゃってるんだ。韓国には息子が早死にするとそれは嫁の責任だ、ケアが悪いせいだ、という根強い考え方があってね。それは一つには正しいと僕は思ってる。僕はあの人と結婚していたら、きっと今頃もう死んでいるよ、だって4人とも夫が早死になんだからね(笑) 

夫のケアが悪い家なんだよきっと。僕も50くらいの時仕事がとても大変な時期があって、痩せてね、病気になって、体重が50キロを割ったことがあったんですよ。でも妻が本当に優しく懸命に、献身的に世話をしてくれて、やっと治りました。妻が悪かったらあの時死んでると思う。妻には本当に世話になったんだ。

 

 

 

その日はそれで別れた。ナスコが赤ん坊を連れて夕方やってくることになっていたからである。いつ帰国か聞いたら5日水曜の昼の便、とのこと。何とかそれまでにどこかで都合をつけたい。

 

夜、ナスコに会って今日の話をした。

ナスコ「ままってさぁ、本当にその日何が起きるか分からない人生を送る運の人だね。だって、私なんてきっと死ぬまで生きても、ある日突然見ず知らずの外人がやってきて『お父さんの親友です、』なんてことは起こらないと思うよ。」  

 

ギャハハ・・・・うん。私もそう思う。

 

 

 

 

 

#5日水曜の午前中何とか時間を空けてホテルへ迎えに行く。空港まで送ると連絡をしてあった。父から継いだ今の事業所を時間の許す限り簡単に案内する。

 

Jee氏「お父さんこんなものを作っていたんだ・・・。素晴らしい遺産だね。社会に貢献する仕事だよ。見せて貰って本当に良かった。お父さんと会えなかったのは本当に残念だった。僕らは本当に仲良しだったんだ、君のお父さんはおばあさんと二人で大きな家に暮らしていた。よく夜遅くまで喋り、将棋をしたよ。その後帰国した僕はついに70年、今回まで日本の地を踏むことはなかった。

 

お父さんは38年前に一度ぶらっとソウルに来たんだよ。突然電話があって、ちょうどあなたが大学に入ったころだ。『娘が大学に入って仕送りをしている。細かい家計簿をつけて毎月送るように、そして納得できないものにお金は出さない、と言ってある』と言ってた。厳しいけれど、慈愛に満ちたお父さんだったよね? 僕は貿易の仕事をしていたが、なかなか思うに任せず、お金儲けは出来なかった。・・・しかしお父さんはあの時どうして急にソウルに来ようと思ったのかな。何かあったかい? 彼はあの時何も言わなかったが、突然電話がありぶらっとやってきて、一晩酒を酌み交わし、語り明かしたんだ。」

 

私には父のことはよくわからなかった。ただ私が家を離れたので子育てが一段落した感があってほっとしたのだろうと思う。父がソウルに行ったことは母からちらっと聞いたことがあった。

 

 

今にして思えばJees氏は19歳で帰国してソウルで生き、父は鹿児島で生きた。38年前ソウルで1度だけ会い、別れたのが結局Jee氏と父との今生の別れとなった。

 

 

彼は言葉にしなかったが、タイミング悪く日本と韓国を行き来しなくてはならなくなり、損失感を終生抱えて生きることを余儀なくされた。頭も良かったし努力家でもあったから、そのまま日本に残ればそこそこ成功しただろう。無念な気持ちは隠せない。戦前、太平洋戦争を日本で経験し、生き延びてさてこれからという時の引っ越しは言葉に尽くせぬ不本意があったと思う。変なタイミングで国を動いた、そのディスアドバンテージからはなかなか回復出来なかった。日本にいれば異邦人という、国に帰れば日本で育った奴という根強いdiscriminationがあったと思う。

 

 

 

父は、幼少の頃 両親と生・死別して祖母と二人寂しい不遇の生活を送っていた。

Jee「お父さんの家は、敷地は広く、大きな家だったよ、1000坪はあったろう。」

Jee氏はそう言ったが、父は後年、田畑、貸家はあったがお金はなく、もう年でいつ死ぬか分からない無学文盲の年寄りの祖母と二人とても寂しく、婆さんが死んだら俺は本当に一人ぼっちだ、どうなるんだろうと思うととにかく心細かった、親のいる人が羨ましくて羨ましくてたまらなかった、と言っていた。異郷の少年の孤独と親がいない少年の孤独が微妙にシンクロ、共鳴したと思う。そして二人は励ましあって、不退転の覚悟で必死で勉強したのだろう。身を立てるために。

 

 

 

 

同じような痛みを分かち合い、彼らは親しくなったのだろうと想像に難くない。父は大学の友人の名前はたくさん話したが、小、中、高の時の話は殆どしなかった。大学はみんな親元を離れるが、小、中、高はみな親元から学校に行くので、あまり思い出したくなかったのだと思う。ただ、私には自分が子供のころ親がなくてどんなにか辛かったということを、祖母と二人の暮らしがどんなに寂しく心細かったかを何度も何度も何度も繰り返し話した。

「お前はいいなあ。お父さんとお母さんが揃っていて、いいなあ。」 私の耳にタコが出来るくらい口にした。

父に子供のころの写真を見せてほしいと言ったとき、

「俺には写真を撮ってくれる親はいなかったんだよ」とポツリと呟いたのを今もはっきり覚えている。

 

 

 

 

 

#空港。12時00分発の飛行機を待つ出発ロビーにて。あまり広くないロビーのソファに座り、最後に少しJee氏と話す。

 

 

 

ナ「どうか、お元気で。また来て下さい。長い間、父と仲良くして下さって、本当にありがとうございました。」と言ったとたんに、急に胸がいっぱいになり、涙が落ちた。父が降りてきた気がした。この人がいてくれて父の孤独はどんなにか支えられたはずだ。父の気持ちを代弁するとすれば、あの寂しかった子供時代にJeeが居て仲良く遊んでくれて本当にありがとうというに尽きる。父の形見に、渡そうと持ってきた元気なころの父の写真と事業所の写真、父が大切にしていた第7高等学校造館「北辰斜めに」が載っている旧制高校の寮歌集を渡した。

 

 

年を取ると、この人と会うのはこれが最後かもという気持ちが胸を突く。ネットやメールを使う人なら、続きはネットでね、と別れることができるけれど、この年の人ではそれも出来まい。


 

 

私は普通の日本人で、今の韓国が日本のことを攻撃してくるのを苦々しく思っている。しかし彼のような韓国人もいるのだと改めて思う。ソルトレイクシティでジーサン・ハンと仲良くなった時のように。

「僕は日本と韓国は仲良くしていかなければならないと思うよ。同じアジアで隣同士なのだから。」 

 

 

 

 

 

#この人にまた会うことがあるだろうか。90歳近い年齢のこの人に。

 

ナ「お、お別れが寂しくて涙が出てきました。」

 

この人には、もう会えまい。

 

 

Jee氏「君に会えて、本当に良かった。旅の目的は100%果たせたよ。会えていなかったら本当に寂しい、哀しい気持ちの帰国になっていただろう。君は私の娘のようだよ。私の娘にもよく似ている。ではまた。元気だったらまた来るから。」

 

ナ「時々は、手紙を、下さい。」

 

Jee氏「うん。では、ね。」

 

 

別れに涙は不吉なり。

 

 

彼はハグして立ち上がり、デッキに向かう。

私は伸ばした両腕を大きく振り続けた。

 

「さようなら!さようなら!お元気で。」父の代わりに。ここに父が居たらほんとに良かったんだけど。

 

「さようなら!さようなら!お元気で。」本当にありがとう! 

 

出国のゲート。青いヤッケ姿の彼は一度振り返り手を振って、次の部屋へ消えた。

 

 

 

 

 

 

 

#3時。事務所にいると携帯が鳴る。家に着いた彼からだった。

 

なんだ。もうお家に帰ったの??? 永遠の別れをしたかと思ったのに(爆笑)

 

たった3時間しか経っていないのに、ほんのさっき一緒に居た彼が、もうソウルの自宅にいる。不思議な気がした。アジアは本当に狭いのだ。

 

 

「あなたの事業所も見せて貰って本当に良かった。お父さんは立派な、社会貢献する仕事をして行ったんだね。きっと天国に行けたな。人のために働いたのだから。彼は地獄にはいないよ。お父さんに恥じない仕事をしていきなさい。では、さようなら。さようなら。」

 

 

・・・・・さようなら。

 

 

 

 

 

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海霧の彼方に

 

開店休業 たばこ屋ダイアリー

 

 

 

 

#ちょっと懐かしい人は古いたばこ屋のお客さん(笑)ハートの透過に失敗してるね。もう出来ん。

 

 

パソコンの引っ越しをした。データの移行は今時殆どPCに保存せず、クラウドか自分のメモリースティックにしているので、新しいのに使うソフトを入れればよい。昔と比べると格段に簡単になった。

 

と、思っていたらたばこ屋のことをすっかり忘れていた。忘れて前のPCのアカウントを潰してしまったので、もうだめかと思ったが、他のデータとは別にたばこ屋だけはone Noteにバックアップしていたので、全てではないがかなりの部分は回収できた。しかし、久しぶりに見てみるとOneNoteは私には使いにくい。他のデータとごっちゃになるのを避けるため、たばこ屋は別にしていたが、普段私はエバーノートを使っているのでたばこ屋もそちらに移すかなあと考慮中。

 

そんなこんなで久しぶりに、20年ばかり前の初期の、web日記だった頃のダイアリーをご開帳で日干しする。うーむ・・・・ みんなよくこんなの読んでくれたな(爆笑) 写真にしろ文章にしろ、我ながらひどい。恥ずかしさのあまりギャーと叫びながら走り回りたくなる。しかしまあ、目を覆うような恐ろしく幼稚なやつも、1年半から2年くらいすると何とかみられる状態になっていた。うーむー。ただ、今時のブログにはない素朴な味のアナログさがあった。少しだけエバーノートに移してみたが、気が遠くなるような作業で、もう捨ててもいいか、と思いながらパラパラ見る。

 

と。面白いのもある。例えばこんなん。

2001年10月20日の分である。

 

 

ーーーーー(引用)

ナスコ「まま。あのね、一年の時友達だった5組のKさんなんだけど。同じクラスの友達の筆箱盗んだんだって。どう思う?」 

 

ふうむ。去年、あんたと仲良しだったの? ナスコ「うん。一緒に街に出かけたりしたことある。」 どういう状況だったの? 「うーんと、ある人の筆箱がなくなって、みんなで自分のバッグを見てみよう、って一人ずつ見ていったらKさんの補助バッグに入ってたんだって。」 おやまあ。で、Kさんどうした? 「私知らない、って泣いたんだって。」

 

ふーん。「ままねえ、それ、Kさんじゃない感じがするな。そういうのを「はめられた」って言うんだよ。その話だけではわからないけれどね。今ごろの子が、しかもF中の子が店で盗んだと言うならありそうだけど、人の筆箱を欲しくて盗るとは思えないなあ。「一人ずつ自分のバッグを見てみようじゃないか、」と言った子が、一番怪しいような気がする。誰かの悪意が働いてる感じがするよ。Kさん自身も油断があったろうよ。ちょっと元気のいい子だったから、人に妬まれたり、人の気持ちを思いやらなかったりしたことがあったのかも知れないねえ。

 

いずれにしろ、あんたには関係ない話なんだから近付きなさんなよ? 危険かどうか分からないときは近づかないの、いつも何が危険なのかよく考えて行動するのよ。『君子危うきに近寄らず、だよ。』ってひぃおじいちゃんがいつも言ってた。自分の旗色をはっきりさせるのはそうしなければならない時だけ。だけどもし、Kさんに相談されるような事があったら、「必ず時が解決するはずだから気を落とさずに辛抱しなさい」と励ましてあげなさい。あんたたちの年ごろは特に、ほんの数カ月で運が変わるんだからね。ナスコも油断しなさんなよ?」

 

処世術みたいなことを教えるのも気が引けるが、正論ばかり吐いて生きられないことも親は知っている。特にナスコは今、将来の自分の基準となるものの見方を私に聞いてくる事が多いので慎重に答えることにしている。将来、この子は私の言葉をもとでに、あらゆる場面に対処して行くだろう。種を蒔いている事を感じながら、用心深く話す。ーーーーー(引用ここまで)

 

 

なかなか、しっかり母親してるじゃんわたし。

 

 

 

*それから同じく2001年。1月20日のくだり。

 

ーーーー(引用)午前中仕事を終えて幼稚園にナスキを迎えに行く。下駄箱のところでナスキを待っていると、ナスキのクラスだけやけに遅い。どうしたのかなと思っているとやっと出てきた男の子が言った。

「あ。ナスキ君のおばちゃん!ナスキくんねえ、今日先生に怒られたんだよ。女の子のトイレ覗き見したの!!」 まあ!

青い顔をしたナスキがノロノロと出てきた。正直なやつだ・・・。

 

ナ「ナスキ、あんた どうかしたの? 顔青いよ。 先生に叱られたんでショー。 何したの?」  

「・・・・・・・どうして知ってるの?」   

ナ「顔に書いてあるよ。先生に叱られた、って。」  

ナスキ「あのねえ、女の子が僕の髪をヒッパテねえ、そいで、あんたってサイテー、って言ったの、そいで、、、、」  

ナ「ナスキ? ままに嘘ついたね? あんたはそんな子じゃないと思ってたのに。あんた、今日女の子のトイレ覗いたでしょう! そいで先生に叱られたでしょう!みっともない。下品なことして!」 

 

ナスキは真っ青になってしまった(笑)

ナ「ナスキ。駄目だと言われていることはしたら駄目よ。おまけに ままに嘘までついて! もうしなさんな? 分ったね。」  ナスキ「はい・・・・。」


 

しょんぼりしてしまったナスキがかわいそうになって

ナ「今日はナスコはお弁当だし、ままとマックに行こうか?」

ナスキ「うん!」  

ナスキがほっとしたようににっこり笑った。ーーーー

 

 

ちょっと甘い母親だったか・・・。

 

でも、この二つのことは全く忘れていた。やっぱ捨ててしまうのは惜しいか。

将来仕事辞めて暇になったら、ぼちぼち読もうか。

 

 

 

 

 

 

#妹と二人で、亡くなった父の部屋を片付けた折に、父が貯めていた郵便局の記念切手が沢山出て来た。父は自分では別に好きでもなんでもなかったと思うが、私や妹に「わー!すごい!!」と言わせたかったのである。時々出して見せびらかしては、一つやろうか?欲しかったらパパのために●●しろ。」という形で使っていた。私が小学生の頃は切手収集が趣味として流行っていた時もあった。将来高値で売れるぞ、という欲も、勿論あった。しかし今時は収集する話は聞かないし、持ち込んでも安値でしかとってもらえない話も聞こえてきていた。古切手屋に知り合いはいないし、さてどこでどうしたもんか。

 

 

妹が来た時に相談。取りあえず3万円分くらい持っていって、良さそうな店を物色することにする。店を決めたらそこで残りも売り捌く。

最初の店は駅の近くの骨董屋。グーグルマップでは現在地から一番近い。何度か店の前を通りかかったことがあり、変わったシーサーとか大きなフランス人形が飾られているのを、こんなん誰が買うんかなと思っていた。店の感じでは資金繰りが苦しそうではなかった。

 

ごめん下さい、といろんなものがごったに並んだ店の狭い通路を入り、カーテンが張ってあるレジと思しき辺りに踏み込む。そこには男の人が居たが、下着のシャツにステテコ姿で手には大振りの刀!! 研いでいるのであった。 ひ、ひぇ〜っ! この人がキチガイならかなり危ない。妹に合図を送るがこれが鈍くてあまり役に立たない。ダイアリーにいい絵が撮れそうだったが写真を撮りたいという勇気はとても無かった。

 

ナ「切手を、売りに来たんですけど。」

ステテコのおじさんは面倒くさそうに立ち上がり、どれ、と検分する。

「切手はねえ、60%から70%が相場よ。うちに売るなら60パーセントね。結局、宅急便を送ったりするときにこれを貼って送るのが一番損がないよ。」 えーーっ 最悪でも額面から5〜10パーセント安かなと思っていたのでかなり落胆。

 

店を出、妹と作戦を立て直す。

「販売ルートを持ってるところじゃないと駄目かも。店舗をいくつも持っててさ。イオンの中の●●屋に行ってみよう。」

イオンの中の●黒屋は、さすがにきっちり印刷した紙片を取り出して、何がいくら、何がいくらと示した。それによると記念切手は60パーセント、普通切手は70パーセント、80円以下の切手は50パーセント、となっていた。

 

ナ「何で?何で記念切手が安いの?」

 「さあ。そういうことに、なっているんですよ。」  ・・・・・。これは?恐る恐ると引っ張り出した厚みにして2センチくらいのテレカは「引き取りません。」これは?と引っ張り出した記念コインも「引き取りません。」・・・・orz

 

 

もう一軒、なんちゃらスタンプ、という切手販売の店に行ってみることにした。スタンプ、と標榜するからには、切手専門だろうから高値がつくかもしれない。

ナンチャラスタンプ、は市内の繁華街から遠くないところ、公社ビル、と地元で呼ばれている古い建物の1Fにあった。切手専売の店かと思ったがそれではとても食えないらしく、切手のショーケースなんか一つもない。狭い店舗にあまり高くない田舎の洋服とか、雑貨、文房具を主に置いている店だった。

 

 

 

出て来た70代とおぼしきの品のいいおじさんは、

「切手はねえ、70%です。売れないんですよ。切手は今後50年100年、永遠に値打ちが上がることはありません。今は学校教育がなってないでしょう?ああいうのは、子供のころの経験が大事なんですよ。 楽しみ方、こんなのがその時代使われていたんだなと想像する楽しさ、そういうものは昔は全て学校で覚えて来たものなんです。でも今はそんなの学校では全く教えていないですからね。ゲーム以外はしない、売れない世の中なんです。

 

昔、お医者さんたちがいつか値が上がると言って集めていた絵画、骨董、ツボとか、刀剣など全部だめですよ。よほどのものでないと値は付きません。もしも何か投機的なことをやるなら、金です。それも地金ね。金の地金。細工がしてあったり字が書いてある程度でもダメです。まっさらの地金でないと。」

 

ふーーーーん? そういえば割と最近博多でスーツケースに金を詰めてどうのこうのって話があったっけ。

 

 

 

妹と私は更に落胆して、今日の分をそこで売ってしまうことにした。2万4千円分が1万6千円になっていた。

 

 

 

ナ「だけどさあ、ちょっと勉強になったね。」

妹「うん。」

ナ「まあ、仕方ないよ。」

妹「・・・うん。」

 

はて。まだ10万円分近くあるんだけど、どうしようか・・・・。1軒めのステテコの親父が言ったように、小包をゆうぱっくで送ってそれに切手を使うのが一番いいかなあ。しかし、そんなに荷物って送らないしなあ。

 

 

 

#海霧の彼方に、風車はゆっくりと回っていた。

 

 

 

 

 

 

 

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アラビアのクネクネ

 

#母が認知が進んできて、実家の片づけをしている。最近実家の片付けタイトルの本も出るほどこの分野は活況を呈している。認知が進む前は手を出すと「勝手に手出しをするな」とか「私のものを盗んだな!」等と烈火のごとく怒るので手が出せなかったが、なんのかので自宅に帰らなくなり施設に居ることが殆どなので、最初は少しずつの「手出し」だったが、だんだん堂々と(笑)とにかく処分に走る。結局のところ母が死ぬとこの家にある通帳、株券などの書類、少しの貴金属と絵を除けば全部ゴミと借金。私の親は経済感覚が全くない夫婦だったので、冷蔵庫なんか外国製の上等なやつのはずだが、手を入れるとむっとする。(体温より高い)火事になってもおかしくないので母が家を空け始めた数年前のタッパに入った煮物とか、椅子に置いたまま溶けたチョコレートに小虫が湧いてそれらが育った抜け殻とか死骸とか、数年前母がトイレに置きっぱなしにした使用後紙おむつとか、もう腹立たしいのを通り過ぎて(以下省略)。

 

 

 

一部屋ずつ片付けた。認知症の人は例えばアルツハイマーの場合発症から10年後に大体死期を迎えると書物に書いてあるが、母はもう少しもちそうだし、それまで待つとこれらは一体どうなるのだろう。3年前のタッパの蓋を開けるのは相当怖かった。業者に頼めばいいのだろうが、間違いなく100万円は超える。この出費を回避するためには、自分たちで袋詰めし、2,3個ずつちまちま捨てるしかない。母の家が近いからできることでもあるし、一人ではなく妹か息子、夫が手伝ってくれているので出来たことだ。そうでなければいくらかかったとしても業者に頼むか、お金がなければ腐りきって形がなくなるまで放置するしかない。私は予言するが、今に日本各地で放置された古い住居が溢れかえることだろう。早く国が何とかしないと、そこに浮浪者とか訳の分からない質の悪いほうの外人が住み着いて、テロリストの巣窟になると思う。現在でさえこうした放置物件には時々、近所の不良高校生とか空き巣が入って仏壇に隠したまま認知症で忘れ去られた現金が盗まれ、つかまった泥棒の自白で分かったりしている。学校法人で騒ぐのもいい加減にして、保育所とか子供にお金がかかって産まないという事情とか、老朽化した家とか、早く何とかしないとという問題の根本的な解決ができる人を政治家にしてほしい。

 

 

 

 

まずトイレ、台所、母の部屋、納戸と片付けて、10年前に死んだ父の部屋に。ここは母が父関係のものをすべて詰め込んで、鍵をかけて聖域にした場所だった。実家の親は変な人たちで、どの部屋にも鍵があり、子供部屋と食堂以外はすべて鍵をかけていた。片付けがおくれたのも一つはこの鍵をどうするかで悩んで、(母しか持っていない)結局鍵屋を呼んで全部開けてもらった。鍵一つ開けるのに5千円かかった。

 

 

父の部屋の引き出しからは結構現金も出てきたが、いやらしいことに旧札(聖徳太子とか樋口一葉とか?)で、使うのにどうしようかなあ・・・ お店の人に変に思われないかしら? ということで、ATMに持って行った。もっと嫌らしいことにはコインが大きなカンカンにいっぱい入っていて(7,8キロあったと思う)、古い稲穂の模様の100円玉とか、昔の大きな50円玉、殆どが10円と5円と1円でかなりため息。これは事務所の女の子に頼んで銀行で入金してもらった。8万円近くあった。

 

 

父の背広とかもう死んで10年にもなるし、倒れたのは20年前だから、20年間一度も手を通さないままの背広は要らないだろうとは思ったが、母が捨てかねる気持ちも少しわからなくはない。私も夫のものならまあ、もういいかな、と思うが、好きな人のものならどうだろう(え?)(いや、例えばの話さ)母は父のことが結構好きだった。

 

両親は変な人たちだったので、私も妹もその価値観の原型を貰ってはいるが今や全く違うものになっている。平たく言うと親が嫌いだ。これは誠に残念なことである。何の因果かその父母の人生の撤退戦を私が引き受けている。私は、しかし逃げないと決めている。

 

父のひみつの書棚(勿論鍵がかかっていて、これも鍵屋を呼んだ)を開ける。

 

なーにーがーはーいっていーたとおーもーうーーーー??

聞いて驚けぇ?

 

古い100円札の帯封付き束。100円札なんか100枚あったって1万円だが、これはまあ許そう。

古い500円札の帯封付き束。これなんかも5万円だが、これもまあ、許そう。

 

なんで10000万円札の束が無いんだよう(泣!)

 

それから出資の証券と株券が数枚、父が死んで10年にもなるのに何の処理もしていない。(母のネグレクト)実は銀行からもずっと父名義の口座の利息のお知らせが来ていて、一つは首都圏の銀行なので、処理したがものすごくめんどくさかった。途中で挫けてもう捨てようかと思ったが、銀行の人が勿体ないですよ、100万近くあります、というので泣く泣く頑張った。飛行機代を払ってもお釣りは来る。ゴミの処分にだって小さいものはゴミの日にちょっとずつ捨てるとしても大きなゴミには一体いくらかかるか分からないし。

 

それから、帯だたしい数のエッチビデオ。エッチな本。これは母がそっち系が大嫌いな人だったので、それに走ったんだな。可哀想なやつ。そしてなんと大人のおもちゃが3つ。(3本と言った方が分かりやすいか)ピンクのプラスチック製で、外国の製品らしくあっち語で書かれていて、アラビアの女のハーレム的衣装をつけた女が煽情的な動作をする絵(下品にならないよう苦慮の表現です)がついていて、妹が、「お姉ちゃん! このアラビアのクネクネ、誰に使ったんだろうね!?」 もう娘たちは興奮状態(爆)

 

 

アラビアのクネクネを使われたのは母ではないと思う。じきに疑問は溶けた。もっと悲劇的なものが出て来たのだ。英語で書かれた2枚くらいの文書が出て来た。多少の英語が読めた私は、びっくり仰天。

 

それには、父とある女Sさんがお金を出し合い、アメリカのとある場所にヘアサロンを出す、という合意書。500万ドル、と書かれていて、すぐ横に居た息子に、「ちょっと!500万掛け110っていくら?」  

息子「えーっと、、、5億5千万?」 ウソっっ!!

息子「えーっと、、、あってるよ。」 あいつ!2億5千万も女に渡したのかよ! 私にこんなに借金残しやがって!!

 

腹が立って腹が立って、夫のところに飛んでいき、事情を話した。

夫「落ち着け! 5億じゃない。」  え? ナスキ! 計算間違えたねっ!

息子「えーっと、、、間違えてないよ! ぼく!」

夫「落ち着け!間違えたのはお前だ!」 え? だって500万ドルって書いてるでしょ?

夫「落ち着け! アメリカドルは下二けたはセントだ! つまり、500万じゃなくて5万だ。だから、550万円? 出資額はその半分だから、275万?」  がっくーん・・・・ もうちょっとで左団扇かと思ったのに。ちぇ!

 

 

話は進んで、これを取り返しに行くかどうか、という段になる。夫は取り返しに行くことには消極的だった。弁護士を立ててアメリカへの行き来を考えると数十万はすぐ吹っ飛ぶ。「労多くして益少なしだよ。」夫の弟は法学部を出ているので相談する。これも、「この合意書には条項がついていて、『益が出たら折半、損失が出たら折半と書いてありますよ。もしも損が出ていたらこれから請求されることもあるわけです。』

 

加えてアメリカとは恐ろしい国で、インターネットに名前と住所を入力すると最近使ったカードの履歴とか犯罪歴が出る。より詳しい情報が欲しければお金を払え、という画面が出るのだが、その女Sの娘はどうやら麻薬、窃盗などの犯罪歴があるらしかった。それって個人情報じゃんねえ。アメリカの方が個人情報保護は行き届いているイメージがあったが、とんでもなかった。これを見ると日本は保護しすぎなのかもしれないよなあ・・・・。

 

 

ちうわけで・・・・・。

ナスカ家はお金持ちになりそこねましたん。。。

また 平常通りの毎日です。

 

めでたしめでたし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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任意保険

杖立温泉(筑後川源流 杖立川)

 

#車屋の担当さんと話す。デザインが好きでずっとマ◎ダに乗ってきたが、今度は◎ツダでも小さい車で、馬力がある車に乗りたいが、マツ◎には適当な大きさのがない。他社も考えていた。

 

話は今度この車(アクセラ)を息子にやるつもりなので、次のをどうしようかという話で。ナスキは5万でも10万のポンコツでもいいからくれないなら自分で買う、と宣言していた。まあ、もう22歳だからなあ。乗りたいかもなあ。そんなお年頃なんですね。

 

 

「5万、10万のポンコツはともかく、任意保険には必ず入るよう言っておいたほうがいいでうすよ。実は・・・・自分は大きな事故をしたことがありましてね。正直、死なせちゃったと思いました。相手は意識不明の重体で、ICUに1ヶ月はいってたんです。毎日病院へお見舞いに行きました。いつ死ぬか分からない状況だったので、向こうの家族、親せきがみんな居て・・・激しくなじられました。僕は19歳で、マツダに入ったばっかりだったんです。新聞にも載ってあることないこと書かれてしまって・・・。世の中ってそういう風になってるんだ、って思いました。母と私と二人きりの家族だったので、母には苦労をかけました。家庭裁判所への出頭命令が来たんですが、行ってみると髪を赤く染めたヤンキーがいっぱいいて、「ぼく、違うんだけどなあ・・・・」って思いました。若くてやんちゃな頃でね。スピード違反とかもしてて、事故で一発で免許取り消しです。

 

 

でも、何とか仕事はクビにならずに済みました。車の営業の仕事だったので、自分で車が運転出来ないと肩身が狭かったです。運転免許の試験場で受験するだけでも良かったんですが、ちゃんと自動車学校から行って、魂を入れ直しました。でも、任意保険に入っていたので助かりました。ICUが一ヶ月で500万でしたからね。今ならもっとでしょう。先方のご家族も僕が任意保険に入っているというとほっとした様子で、空気も少しは緩みました。とりあえずお金の心配があるのとないのとでは大違いですからねえ。

 

僕は昔、毎日お見舞いに行きましたが、今だったらもうそこまでしないほうがいいですよ。1回は菓子折り持ってお見舞いに行かないといけませんが、後は保険屋に任せております、で電話は切って構わないと思います。」

 

 

 

 

 

 

ナ「ふーーーーん・・・・」  辛かっただろうなあ。自分が悪かったとはいえ。

 

 

 「ええ。今でも頭のここのところが真っ白白の白髪なんです。その時からもう黒い髪は生えませんでした。」本人もだろうけど、私にはお母さんの立場が思いやられて、更に母親を見て辛かった彼の心細い気持ちが私の心に流れ込んできて、涙が出そうだった。(我慢したけど)(最近はナスカさんも年を取ってね。涙もろくなってきたのよ)

 

 

ナ「貴重なお話を話してくださって、本当にどうもありがとう。それにしても。ま◎だって、なかなかいい会社だなあ。懐が深いところがある。そこで切られてしまってもおかしくはなかったですよ。誰かがあなたに、チャンスをやろうと思ってくれたのよ。」

 

その状況では辞職に追い込まれる場合もあった

 

と思う。まだ新人で何も仕事は出来ない上に、車屋の営業で運転が出来なければ話にならないだろう。人事と上司の胸先三寸で決まることもある。彼にチャンスをやろうと思うほどの何かを、彼が持っていたとしか思えない。私は人事を扱うことがあるのでその空気感が少し理解できた。人智を超えた存在の意思を感じる。

 

 

 

・・・・次もマ◎ダにするかぁ。

 

 

 

#職場にて。

Z氏「Aさんが、ですねえ・・・交通事故を起こして。双方けがはなかったようですが、先方の修理費その他借金がかさんで、任意保険に入っていなかったらしくて・・・。怪しいところからも借りてしまい、もうやっていけない、お水に行きたい、って辞表を持ってきましたよ。」

 

うーーーーーん!   しかし、なんで任意保険の話ばかり今日なの?

 

 

 

#仕事的には繁忙期に入り、6月はキチガイみたいに忙しい。少し疲れたと思っていたら持病の大腸憩室症が出て腹痛で1週間死んだ。薬が手に入りやすい環境に生きて本当にありがたい。でもそろそろ仕事、何とかしたいなあ。私、いくつまで働くんだろうか?サラリーマンしている同期は来年、定年らしいんだけど。

 

 

 

 

 

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