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走って走って前に進め!

 

#ナスコのところに二人目の赤ちゃんがやってきた。

 

 

#予定日は4月27日。折しも国民に10万ずつ配る例のアレの期限の日で、貰える資格は令和2年4月27日 住民基本台帳に記載されていて日本在住の人。つまり、ベビーはこの日27日までに生まれないとダメなのだった。

上の子のAC君は予定日より1ケ月早かったので、もしかすると27日までに生まれてくれるかと思ったが残念。生まれそうな気配は全くない。25日、検診で主治医は「卵膜を少しはがしておいたから一両日で生まれると思う。」と言った。

 

・・・・生まれないじゃん、先生?

 

 

そのうちに

「28 という数字は完全数なのだ、生まれるなら28日がいい。」と婿が言い出した。完全数? って何だい???

 

「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」によると、

完全数(かんぜんすう、: perfect number)とは、自分自身を除く正の約数の和に等しくなる自然数のことである。完全数の最初の3個は 6 (= 1 + 2 + 3)、28 (= 1 + 2 + 4 + 7 + 14)、496 (= 1 + 2 + 4 + 8 + 16 + 31 + 62 + 124 + 248) である。「完全数」は「万物は数なり」と考えたピタゴラスが名付けた数の一つであることに由来する。

 

へええ。

 

ナスコは、「生まれながらに完全、なんていい!」 と乗り気だったが、私は「不完全な方が人間らしくていいよ 100より99の方がいい、」と考える人なので、うーん と思ったが、そこはナスコの子なので黙っていた。

 

 

・・・・しかし、この日も生まれなかった。

 

 

 

#今日も不発か。ふと、5月3日が父の誕生日だったことを思い出し、どうせここまで遅れたなら5月3日はどうだろう?

と思いながら床に就いた。父は自分の誕生日に結婚したから、父母の結婚記念日でもある。

しかし、物事は思い通りにはならず、29日になったばかりの0時27分、ラインが来た。

 

 

 

ナスコ「破水した。病院に行く。」

 

 

えーーーー! 今日ですかい!? 

今はコロナで付き添いは誰も病院に入れない。自分でタクシーを呼んだというので、成り行きに任せた。

病院に着いたのは0時40分。

どちみち生まれるのは朝が来てからだろう。

明日朝7時に上の子のAC君を迎えに行く手はずを整え、早く寝ましょう。

ぐー。>寝るのかい!

 

 

ぐーぐー寝ていると チン!とラインが鳴った。見てみると、

ナスコ「生まれましたぁ。」

えーーーーっ! もう生まれたのかい!

 

 

万事 神が定めた時が来るまでは頑張っても何も起こらない。神が定めた時が来たら、何者も逆らうことは出来ない。

そんな勢いで生まれてきた。

 

 

がっかりする位、婿にそっくりな赤ん坊だった。

 

 

 

 

 

 

#朝6時半に家を出て、孫1ACを迎えに行く。婿は7時半に家を出るとのことだから、7時には迎えに行ってやらねば。

7月に4歳になる孫ACに、刺激しない程度に赤ちゃんが生まれること、生まれる時はママは5日くらい、病院にいなければならないこと、5つ寝たら帰って来るから、おばあちゃんの家でお利口にしていること、この3つを、分かったかどうかは置いておいて、厳しく言わずに出来るだけ柔らかく、何度も説明しておくようにナスコに言ってあった。

 

 

AC君はひどいママっ子で、ママがいないと夜も日も明けない。ママべったり。私は心配していなかったが言葉が遅く(夫もナスキも言葉が遅かった)、保健所からは発達障害の療育教室を訪ねてみたらと言われるくらいだった。初めて母親がいない状況で いざとなるとどういうことになるか考えただけで気持ちが重かった。先々週私の家に来たので、私からも言っておくか、と思い、よくよく考えてこのようにだけ言うことにした。

 

ナ「ACくん、あなたももう少しで4歳のお兄ちゃんなんだから(敢えてお兄ちゃんになるんだからとは言わなかった)、しっかりしないとね?」と言うとすかさず小さい声で、しかし嬉しい秘密を共有する、共犯者のように

AC「あかちゃん?」

私が思わずAC君を見ると、もう一度小さな声で

AC「あかちゃん?(なんでしょ?)」と言った。

 

 

 

 

その、赤ん坊が生まれた朝、玄関のピンポンを鳴らすとACは寝巻のまま、父親に抱かれて玄関に降りてきた。何も説明せず なるべく静かに私の膝の上に乗せ、ナ「ばーばの家に行こうね」。ACは泣くかと思ったが、全く泣き騒ぐことなく全て了承済みのように普通に私の家にやって来た。そして続く5日間、寝言以外は一言もママ、と言わなかった。その覚悟が伝わってきて、泣き騒がれるよりもずっと辛かった。

 

 

 

 

#私はお産が重くて二人とも死にかけで産んだ。ナスコは2度目だということもあるけれど、父方の性質を貰ったらしく今回至って安産だった。

 

ナスコ「0時40分に産院に入って1時半ころまではいたーい、という感じだったけど、1時半から生まれるまでは(2時半頃)物凄く痛かった。」

破水のときはどうだったの?

ナスコ「ACと一緒に寝てたら、なんか頭の中でパチン、って音がして目が覚めた。トイレに行ったら水が出てて、破水だなって思った。」

「一人目のときは初産で大変だったけど、今度は看護婦さんに上手―! って言われた。」へええ。

パチン、っていうのか。へえええ。

 

 

 

 

#翌日産院で母児同室になり、少し落ち着いた写真がline に送られてきた。生まれたてで裸のまま母親の胸の上に抱っこされている写真は悲惨だったが、数日病院にいるうちに赤ちゃんは少し可愛いくなってきた。きっと産道を通るとき鼻がへしゃげて腫れていたのかもしれない。この鼻で生きていくのか可哀想に、と心底哀れに思ったが、、これなら目も開いて何とか見られる。

 

 

名前は何て付けるの?

「UT、にしようかな。」

私は、(日記中で)最初の孫ににAC(長男)とつけたので、今度のはBC にしょうと思ったが、before とafter(長男)で順番 が反対になってしまう。

おまけに巷でビフォーコロナ、とアフターコロナではきっと価値観が劇的に変わるだろう、CはChrist(キリスト) のCではなく コロナのCだ、なんていうのを聞くと、全く違う方がいいのかもしれない。で、名前はUT とつけた。

 

 

 

 

#UTは元気な赤ん坊で、飲みたいだけ飲み、腹が空いたときと抱いてほしい時だけ泣き、後はよく寝ている。性格のいい赤ん坊だ。人間の行事の中で、努力すると叶うことが殆どだが、この赤ん坊が生まれることに関してだけは努力では事情を選べない。UTが健康で生まれてきてくれて本当に有難い。同じ日に生まれた赤ん坊の中には厳しい運命の子もたくさん生まれているだろう。そういう方には本当に申し訳ない思いだ。誰に向かって感謝したらよいか分からないが、もの皆全てに感謝したい。ありがとう。

 

 

 

 

#UTが生まれてからACはひどい赤ちゃん返りをし、3歳でおむつもとれていたのに粗相が多くなり、ママべったりになってしまった。元々神経質そうな感じに加え、反抗期も重なり、引っ越しで家も幼稚園も変わり、仕方ないとは言え悲劇的状況。母親が赤ん坊とお風呂に入るとリビングにウンコをしていたり、母親にご飯を食べさせて貰ったり、ひと時も離れなかったり。とうとう、懸案になっていた発達障害の療育教室に出す、とナスコが言い出した。

 

 

ナ「えーーーっ ちゃんと意思は通じるし、よくしゃべるという方じゃないだろうけどちゃんと喋ってるし目線も合うし、そんな必要はないんじゃないの??」というのが夫、私、ナスコの夫、私の妹の意見。

 

 

 

しかしナスコの決意は固かった。

「今の幼稚園はACが粗相をするたびに電話してきてストレスでたまらないの。幼稚園変わりたいけどどこもいっぱいで受け入れてくれるところがなくって、M幼稚園が発達障害のクラスに週2回通うことが条件でならいいんだって。試しに行ってみたらACはとても楽しそうだし園庭も広いし、なかなかいいと思って。行政の許可みたいなのが要るらしいけど。」

 

えーっ。

 

どうしようかと思ったが、ACは確かに神経質で扱いにくい。今ほどの若い、卒業したての幼稚園の先生では心もとない。ここは母親の判断で行くしかないのかもしれない。

ナスコの判断がどうかは分からないが、ナスコの子なのだから、結果どうだったとしてもそれがACの運命だとも言える。

 

 

 

 

#ナスコが小学校に入ったころ、住んでいた夫の職場の宿舎は川添いにあった。初夏のある日 物凄い数のトンボが一斉に羽化し、群れて飛ぶ日があった。トンボとりをナスコに教えようと二人で捕虫網と虫かごを持って出かけた。私は止まっているトンボにさっと網をかけ、百発百中でとる。こうやってね、と教えようとした時、いきなりナスコが捕虫網の竿を振り回し、武者のように走り出した。

「ヤーーーーっ!」 

・・・・待ちなさい! 戦場じゃないんだからさ!・・・

めくらめっぽう激しく竿を振り回し、トンボの群れは逃げ回って辺りの空気は騒然とした。

 

 

ナ「ナスコ! そんなに振り回しても、捕れませんよ!」

ところが、、、何ということでしょう!

ナスコの網を見ると中にはトンボが4,5匹入っているではありませんか・・・

これでも捕れるのか。トロいトンボどもだ・・・・。

内心舌を巻いた。

 

 

#妹にACの話をすると、ナスコの話を聞いてみてくれた。後刻ラインが。

「ナスコちゃん、何が正しいのかわからないけど、前に進むしかないってさ」

 

そうか・・・。

そう。あの子はそういう子なのだ。

とにかく薙刀のように竿を振り回し、走って走って前に進めば何とかなる。

そう思っている。

妹にそう言うと、

妹「アハハ・・・ そういうことか。私の数学(の解法)と似てる!」

いや、違うと思うぞ。

 

・・・血筋かな・・・・。

 

 

 

 

 

 

コロナの中の旅立ち

 

#日本中の多くの家や職場がそうだったように、この春はナスカ家も 新型コロナでメチャクチャだった。

 

 

ナスキの卒業式の予定は、3月13日だった。楽しみに楽しみにしていたのだ。

卒業式にはレースのスーツにしよう。

パールのネックレスとコサージュが父兄らしいかな。

どの学校でも校門の横に出される「卒業式」の看板の横に立って、ナスキと並んだ写真を撮ろう。

ナスキの名前が卒業式で学長に呼ばれたら、ああ、どんなに感激だろう!! 

これでもう、子供に学費も仕送りも全て完了だ! 祝いに、梅の花でランチをしてぇ、桜満開の筑後川の川べりを散策しよう。シュークリームでも買っていって、川べりに腰を下ろして食べながらささやかな花見をしよう。

 

 

プランは露と消えた。

 

 

 

 

#3月16日。この日はナスキの国家試験の合格発表の日。

 

何度もあった模試も30番内に入っていたし、ナスキも試験後たぶん大丈夫だと思うと言っていたので、あまり心配はしていなかった。どうしても自力で突破しなければならない関門だということはよく分かっているはずだ。

 

14時前にパソコンで●生労●省の合格発表サイトに繋ぎスタンバイ。

ナスキの受験番号はこっそり確認済。(ママン、恐るべし!)

 

14時00分、リロード。リロード。リロード。

えいっ なかなか繋がらない。アクセスが集中しているのか。

くそ!厚●省め何をしている!!14時だろうが! もう1分半も過ぎているぞ、と思った何回目かのリロードで数字の画面が出た。

 

出たっ

 

気が動転して、数字が見つからない。291、291、・・・  ナスキの番号は憎い。憎いじゃなくてもいいのにと思ったが覚えやすいことは覚えやすい。にくいにくい・・・・

 

ない!! どうしよう! と思ってから、この数表は横書きだった。縦に見ていた、と気が付いて。

 

もとい。横に見る。

291・・・・あった!  あったあった!(涙)  良かったあ・・・!

 

同時にナスキからの電話が鳴った。

 

ナスキ「もしもし?」

ナ  「合格おめでとう!」

ナスキ「(かなり気を悪くして)知ってるの? なんで!?

    受験番号も言ってなかったのに!」

ナ  「へへへへ・・・・」

ナスキ「なーんだぁ。せっかく喜ばしてやろうと思ったのに― つまんない!」

 

いえいえ。喜びましたよ。あんたから聞くよりずっと、自分で探し出した方が嬉しい。嬉しかった。感激だった。

 

 

 

 

 

#昔ここで書いたことがあるが、私の時は新聞でしか確認出来なかった。新聞が一番早い確認方法で、同日昼厚生労働省の敷地内の看板で確認できるらしかった、しかしそこまで行く人は殆どいなかっただろう。そういう時代だった。学生時代新聞は取っていなかったので、新聞をとっている親友Fのアパートで、早起きして息を殺して新聞配達の音を待った。来た音がして、Fがつっかけで外階段を下りていく。「ナスカも一緒に」と言われたけど、私は(意気地なく)行かなかった。

 

Fはマークシートの行を間違えたと言って試験直後から数日「落ちた」と大泣きし、1月半後のその日、諦め気分の恐怖の中、こうして確認のため階段を下りて行ったのだった。二人とも(私も彼女も)それぞれの事情で、もし落ちても親からのこれ以上の援助は受けられないと覚悟していた。落ちれば何としてでも一年間自力で食わねばならない。ともかくFは郵便受けを開け、新聞を開き、恐ろしい沈黙の後で、階段を駆け上がってきた。その音を聞いて、Fは受かったな、と思った。

 

「受かったよ!みんな名前がある! みんな、合格したよ!」

 

当時の新聞はナスキのような受験番号ではなくて合格者の名をそのまま載せていた。私は、実はこの新聞に自分の名が出ていると思っていなかった。本籍地の新聞に載るんだろうと思っていたのである。当時父と大喧嘩をしていたときだったので、自分の合否を、実家に電話して聞くことが出来ないでいた。

 

自分の不安をよそに、同級生の合否は?・・・と思いながら、一人狂喜して喜ぶ友を尻目に差し出した新聞を見る。

 

ふーん ほんとだ。みんな通ったな・・・すると私も何とかなったかな・・・・ あれ? あれっ?

 

「あっ あたしの、あたしの名前が、あるじゃないっ!」と言うと、

 

F「そうだよ? だからさっきから通ったよ、って言ってるじゃない!?」

ナ「えーっ、そんだったんだーっ 早く言ってよーーー」

 

だからさっきから通ったって・・・

 

ぎゃーーーーっははははははは!! 

 

そんな大事なことは早く言ってくれなくっちゃー!!

 

あーはっはっはっは だからさっきから・・・(二人とも頭に来てる)

 

朝の5時前から、隣の人はさぞうるさかっただろう。ごめんなさい。

 

 

 

 

#ナスキは国試発表の翌日帰宅して、最後の休暇をぎりぎりまで滞っている私の実家の跡片付けを手伝ってくれた。そして3月の終わり、上空を旋回しながら飛び去るセスナのように勤務地へ去っていった。コロナのお蔭で祝いらしい祝いはたいして持てず、家族だけで娘婿が用意してくれた心づくしの祝いの膳を囲んだ。数十年に一度、希望が持てない暗い時代が卒業に重なって 世に出なければならない世代がいる。この春の新卒者は本当に不憫だった。年月が過ぎ去って振り返ったとき、歴史に残る春になるだろう。でもともかく我々は生きているし、生きていかねばならない。

 

 

 

 

#ナスキが任地に行って少し寂しくなった我が家に、ナスコがAC君を連れて帰ってきた。3月、夫の任地から転勤で市内に戻った。もうすぐ生まれる大きなおなかの引っ越しは大変だっただろうが、私に助けは求めて来なかった。引っ越しくらいは自分で出来るということなのだろう。しかし、どうしてもお産の時は

 

「AC君を預かって欲しいのだけど。」

 

 

娘がお産をする職員が、時々「長期で休みが欲しいのだけど駄目なら退職する」と言ってくることがある。長く、なぜそういうことになるのか分からないと思いながらも休みを許可して来た。しかし自分がその立場になってみるとよくわかる。子育て、介護など休む事情はよく聞くけれど、お産の時の娘夫婦の上の子を預かるための休み、産親休暇? 為孫休暇? 誰か名前をつけてくれ。おそらく、世間の多くの人はお産をする娘の母親がしている苦労を全く知らないだろう。当然のように、これは実家の母親が背負うことなのらしい。誰か、労●基●●●署に訴えてくれんかね。昨今あそこは誰の差し金か知らんが、とんでもないことばかり言いよる。

 

ナスコ「今度はお産の時実家に帰るのはやめようとおもって。A町の(自分の)家に産後すぐに帰ろうかと。ACの幼稚園があるから・・・・。」

おさんどんは私が娘の家に通ってやるとして、AC君の幼稚園の送りくらい、婿がやってくれたらいいのに。やってくれっこない婿なのである。

ナスコ「今、彼の頭の中は転勤後の新しい職場のことで暗いのよ。子供が生まれるなんて雰囲気じゃないわ。」

 

オマエ、なんでそんな奴 婿にしたのかと言いたくなるのを抑えて、

ナ「ま、何とかなるわよ。」

とだけ言った。

 

 

 

 

#医療現場でコロナのPCR検査を オリンピックのために政府が規制して、検査をしないってのはどうだろうかと言う人もいるけれど、外国の様子を聞くと世界の中で日本は、独自のやり方で何とかしのいでいる、よくやってるよと私は感心している。誰が考えたのか知らないが、(誰かが指揮を執り、知恵を絞って作戦を立てないことにはこういうことになってない)ともかくある程度はその戦略の通りに動いていると思う。立案者は誰で、計画はどう、ということをはっきり公開して説明すればいいのにと思うが、そこまで手が回らないということもあるだろう。一つには、日本には ハグとかチューとか握手とか、顔をスリスリしたりとか外靴のままベッドに入るとかの 清潔の観点から考えるとあまり宜しくない習慣が無かったことが大きく幸いしていると思う。

 

 

 

 

しかしかなり感染者は増えてきた。さて、この後を予測してみたい。

 

 

結局のところコロナは、全員が免疫を獲得するまで世界中で流行り続ける。

免疫を獲得する方法は二つ。

一つは全員がこのウイルスに感染し、子供、老人、病人、そもそも体が弱いなど多くの弱い人が死に絶え、淘汰されて生き残った人でこのウイルスに強い人類を形成し、その人たちで生き残っていく。この場合恐ろしい数の死人が出るだろう。

 

もう一つは、早ければ一年後と言われているワクチンか、抗ウイルス薬が開発されて、それによって免疫を獲得する。しかし獲得免疫は割と弱く不十分で、数年で白紙に戻り、また罹患する、を繰り返す可能性もある。

 

私の感じでは日本がやろうとしているのは、ワクチンか抗ウイルス薬が出来るまでの時間を稼いでなるべく医療現場に混乱が起きないようにし、何とか1年、1年半をやり過ごす。その間にゆっくりみんなが感染者し、無症状のまま或いは症状は出るけど劇症にならないまま抗体獲得者を増やす。数百万、または1000万くらいが免疫を持ったころ、ワクチンか抗ウイルス薬が完成する。それを使って残りの人は免疫を獲得する。要するに免疫を獲得するまでをどういう形で持っていくか、なるべく有利な形で持っていきたい。これが狙いのような気がする。だ

 

から自分はどの時期でどのように免疫を獲得するか、個人も考えておいた方がいいと思う。いずれ、世界中の全員が罹患するかワクチンを打つかして免疫を獲得せねばならないのだ。

 

 

オリンピックをやりたいのであれば日本だけが収束してもダメで、世界中で収束せねばならない。そうでなければオリンピックが終わった後、プールや競技場で感染した選手や観客のコロナによる死体が累々と連なることなる。

今の日本以外の世界は出たとこ勝負で突入し、ガンガン感染者と死人が出て、戦場のようになって収束する経過を辿っている。日本の他には台湾が善戦している。

 

株は、来年の今頃 薬かワクチン、もしくは両方が出来た頃を底に上がってくる。企業はそれまでを何とか持ちこたえる。こんなところかなあ。

 

 

 

今回の日本のやり方が良かったか悪かったか。反省を含め、事態が収拾してしばらく経ったころ、検証、追試されるだろう。私は日本のやり方が間違っていたとは思わない。反省点は沢山出てくるだろうから、それをふまえて後世、同じような感染症の流行時のあり方を確立してほしい。

 

みんな忘れているけれどこんな病気が流行ったことは日本史上初めてでもないし、最後でもない。

 

 

 

 

 

 

 

スピンオフ1号 運玉

 鵜戸神宮の「運玉」

運玉

 

#その日は9月の残暑の厳しい日で、いつものように仕事は滑り出した。

 

 10時前、事業所の職員から内線が入った。「利用者が急変したので救急車を呼びました。」

取り急ぎ先日転んで痛む足を引きずって当該の事業所(歩いて2分)へ向かう。こんな時に限って転んで靱帯損傷とか肉離れになっている。

 

事業所に着くと主任(40代♂)が心臓マッサージをしていた。こいつがものを考えられるようにしてらやないと事態は好転しない。「私が替ろう。」と言い、交替した。利用者の顔は真っ青で、どう見ても死んでる顔だった。ここまでの事情を聞いている暇はなかった。

 

「K君、こりゃ駄目だ。」 

「はい。僕もそう思います。」

救急車が到着するまで7,8分あっただろうか。胸の一押しごとに祈るようにつぶやいた。

 

早く来いっ、救急車! 

 

早く来いっ、救急車!

 

・・・・神様!

 

 

肋骨の折れる気持ち悪い感触が手のひらに感じられた。心臓マッサージは肋骨が折れないと力が心臓に伝わっていない。

そいういうものだ、と習ったが、何度やっても気持ちが悪かった。

就職して何度かこんな場面はあった。学生時代、自分が救急蘇生を学んでも、役立てる機会は無いと思っていた。

わからないものだ。

 

 

心臓マッサージをする私の横で、スタッフが概要を説明した。

今朝の経過はこうである。迎えに行ったとき、利用者N氏は「ああ、○○○デイサービスさんね、」

といって介助して貰って歩いて車に乗った。20分ほどの距離を走って到着し、車から下ろそうとした時には明らかにおかしい様子で、心肺停止の状態。

ケースは95歳、最近サービス利用が始まった方で、進行性側索硬化症と診断され、あと2年で死ぬと言われていた。

癌にもかかっていたが、年が年でもう治療はしないとのことだった。

要するに、側索硬化症が早いか癌が早いか老衰が早いかという話である。

しかし、私としてはここで、今この場で死んで欲しくはなかった。

 

 

 

スタッフの看護師がAEDを持って走って来て、着衣を剥がし、胸にパットを貼った。電源を入れるとAEDの指示は更に心臓マッサージをしろ、とのこと。数人のナースと私の交替で心臓マッサージをした。

 

 

このときばかりは神に見えた救急隊が到着し、更に10分ほどでドクターカーという、ドクターが乗っている救急車が来てくれることになった。

ドクターカーはやってきて、俄に現場は8人の救急隊員と2台の救急車、それにうちのスタッフで物々しい空気に包まれた。

 

ドクター「ルート確保!(血管に点滴を入れること)」 

 隊員 「確保します!」

ドクター「強心剤!」

                    ・

                    ・

                    ・

そして心臓マッサージは胸のところに、フラフープを半分に切って、その真ん中に取り付けた棒がまっすぐに心臓を押す構造のマシンを取り付け、人の手は引き下がった。

 

「DNARはどうなっていますか。」

 

DNARとは、Do not attempt resusucitationのことで、救急蘇生を行わないでくれという本人の意志のことである。

このケースはまだうちのサービスを利用するようになって日が浅く、そこまでの具体的な意志の確認は出来ていなかった。

実際DNARとなると書類での本人、家族の意思確認が要る。何しろ人一人が死ぬのである。

まだ日本の社会はそこまで行ってない。肝心の本人は95歳、奥さんは認知症がかなり進んだ二人暮らし、

自分の病気が何か大きな病気らしいこと、いずれ死に至るらしい、くらいしか認識はなかった。訪問診療をする在宅医にかかっており、こうした急変時の申し合わせは、あったのかも知れないがこの時在宅医と連絡はつかなかった。

 

 

 

ドクターはキーパーソン(家族)との連絡を試みた。べらんめい調の太った50歳くらいのドクターで、

 

ドクター「家に電話したらボケボケの婆さんが出た。これじゃ駄目だ! 他の家族は!?」

 

他の家族はここから車で20分ほどのところでパート勤めをしている娘。

うちのスタッフのK君からの電話で父親が倒れたことを10分ほど前に聞いたばかり。

急遽こちらに向かっているところだった。

そしてパトカーのドクターからの電話を受けることになった。

 

 

 

ドクター「娘さんですね?救急車の医者です。お父さんですが、現在心臓は動いてないし、呼吸もしてません。器械で心臓マッサージをしている状態です。心臓も頭も(ものが分かるようには)戻らないと思いますが、このまま救急蘇生を続けますか? このまま病院の救急に運べば、気管切開になります。救急に運ぶという事はつまりそういうことです。どうしますか。」

 

 

 

 

先生・・・・それは無理かも。その電話の意味を正しく理解し、回答するには電話の相手はあまりにも普通の女の人すぎる。

絶句したままの相手の様子がドクターのすぐ脇に立つ私に見て取れた。

 

 

 

すると、「あっ!動いた!!」

患者を看ていた救急隊員が叫んだ。

 

 

ドクター「あ。今、お父さんの心臓が動き出しました! でも運んでいる途中にまた止まるかも知れません。止まる可能性は大です。

今度止まったとき、そこで治療を止めるという選択肢もあります。頭の方は(物事が分かるようになるくらいに)戻ることは多分無いでしょう。それでもこのまま続けていいですか?」

 

娘さんにしてみれば自分が続けなくて良いと言えばドクターも救急隊も帰ってしまい、そこで父の命は終わる。自分がとどめを刺すように感じただろう。いきなり言われてそこまでの覚悟はない。

結局 娘さんに覚悟がないのを見た医師は、

「分かりました。蘇生を続けます。このタイミングで心臓が動き出したと言うのも、もう一度最後に娘さんやお母さんと会いたいという意思表示と取れないこともない。」とこの医師には不似合いな一言で電話を切った。

 


 

#後日、このケースの利用者は一応命を取り留め、家族は事業所に深く感謝していると聞いた。

「認知症の進んだ母だけの時父が倒れても、何もできずにそのままだったと思います。」

それはつまり、もしかすると、何日間か放置されてお父さんは無事に死んで行ったかもしれない。

 

 

 

「あのまま救急にいるんだそうですよ。」

目を覚ます事はないだろう。それは私にもわかった。心肺停止の時間が5分で障害が残り、10分で死亡すると言われている。

 

一命をとりとめたとは、私たちの必死の努力が効を奏したということであり、喜ぶべきことなのかもしれないが、これで良かったか?という気持ちが深く私を揺らした。

私が彼であったなら、年からいっても病気からいっても早晩死ぬ。せっかく車に揺られて気持ちよく死んだのに救急で目が覚めたら機械に囲まれ、チューブや点滴に繋がれ、肋骨は軒並み折れて痛くてたまらなない。くそ!どうしてくれよう!と思うだろう。

 

 

でも、結局 そこをはっきりさせておかなかった本人の責任である。文字にも書き、家族にも周囲にも言い、カードにしていつも持って歩く。自分の意志をはっきりさせておかねば、たとえ家族、配偶者や子供であったとしてもなかなか人の死なんて決められるものではない。決められない日本なのである。そして法整備は悲劇的に遅れている。

 

 

 

#後日、この件に関し妹と話した。

 妹は福岡で麻酔医をしている。

 

「医者は、生かすための訓練しか受けないんだよ。医者にかかればとことんやる! 

やるさ!助けたい!と思って医者になったんだから。全力で、全身全霊をかけて、やる!

そうでなければ医者なんか出来んよ。

死なせる?

それは第一線の医者の仕事じゃない!

 

在宅の看取りとか言うなら、医者でも初めからそういう訓練を積んだ医者か、

もしくはどうせ医療を全く行わないなら多少訓練を積んだ新しいナンチャラ資格の普通の人で十分なんじゃないか?

牧師とか僧侶とか? 看取り師みたいな。」

 

まぁ、そうだよなあ。

 

そしてこんな話をした。

妹「この前手術で麻酔かけたおばあさんさあ、93歳で骨折の手術だったんだけど、

普通その年だと麻酔かけると死にそうなのでやらないことが多いんだよ。

 

でも状態良さそうだったので出来そうだなと思ってね。出来ると返事したの。

そしたらそのおばあさん手術が始まる前に、

『先生、私はもう十分生きました。

手術中何があっても悔いはありません。

麻酔かかったまま死ねたら全然苦しくない、本望です。

先生が責任を感じる必要は全くありませんから、ね!?』

 

『いやいや、私が担当するんです、絶対に死なせません。

っていうか私が担当する術中と術後だけは死なないで下さい、

いいですか、絶対に、絶対に死なせませんからね!?

 死んでもらったら困ります!』

アタシのキャリアに傷がつくじゃんねえ?(笑)

変なこと言うから何度もチェックしてさ、いつもよりナーバスになっちゃったよ。」

  

確かに麻酔かかったまま死んでもいいやというおばあさんの気持ちはよく分かる。

 

 

 

#自分のこととして考えるとき、気絶していたらそのまま放置してほしい。

気絶するまでが恐ろしいのだ。気絶したら痛くも苦しくもないのだから、何もしてほしくない。

せっかくうまく死ねそうなところまで来たのだ。

痛がっていたら、また苦しがっていたらどんな薬でも使って下さい。お願いします。

 

 

 

 

#うまく心臓も呼吸も止まっていたら、どうか触らないでそっとして置いて欲しい。

あともう少しでうまく死ねるところまで来ている。

 

心配しなくても私は天国に行くに決まっている。

可能だったら、祐徳のお稲荷さんのちょっとlazyな子分になって

もうこの世には生まれてこない。

そしてあなたを守ってあげる。

 

今度の生は良い子供たち、良い知己を得て悔いなく生きたけど、

また日本人に生まれて悔いなく生き抜く自信はない。

もう生まれなくてもいいや。

浮き世は苦しみと、誘惑が多かった(笑)

 

葬式は、してもしなくても良い。

本当は舅姑と一緒の墓になんて入りたくないけどだからといって実家の墓もごめんだ。

でも、あれこれ言うとみんなが面倒くさいから、好きにしてくれ。

みんなが一番簡単なように。

 

 死ねば骸はただのゴミだ。こだわりは、全く、無い。

 

 私はそう考える人だったと覚えておいて欲しい。

 

 

 

 

 

エピローグ ------- ベトナムレポート

 

ハノイ

 

#早朝5時20分、自宅前に予約のタクシーが連れのT子さんを乗せて到着した。軽いゴロ付きスーツケースをトランクに乗せ出発。博多から直行便、ベトナム航空。

1日目 2月28日

    10:30 福岡国際空港発 

    13:20 ハノイ着

    15:00 C社 本社視察(送り出し機関)

    18:00 夕食 ベトナム料理 まあまあ 不潔との闘い

 

2日目 3月1日(金)

         9:30 日本語教育センター視察

   12:00 フォー

   14:00 C社にて実習生面接

   18:00 夕食 ベトナム料理 まあまあ 

 

3日目 3月2日(土)

     9:00 ホテルチェックアウト

   12:00〜旧市街地、ベトナム世界遺産等視察

        車中で適当に

   19:00 夕食 空港でピザ

   
4日目 3月3日(日)

  am1:50 ハノイ発 

     7:20 福岡空港着

 

大体このような予定で動くことになっていた。

しかし到着直後、ムンバイ空港から高速道路に乗り、ほんの数分行ったところで高速道路の封鎖に遇う。曰く、「米朝会談の不調でトランプ大統領が急遽帰国することになり、今からここを通るからとのこと。

「ほんの数分早ければ抜けられたのに、悔しい。」生真面目な若いドライバー君は大層悔しがったが、私はトランプの乗った車が見られる方がずっと嬉しかった。米朝会談があることは予め分かっており、一瞬日程の変更を考えたが、テロの可能性も厳重な警戒下の方がかえって安全だろうし、ハノイ市内はごった返すかも知れないけれど、それも面白い。

何より、この日のハノイ入りを決めたのは米朝会談よりうちの方が先だ。

受け入れ先の会社は当初米朝会談はダナンで予定されていたのでゆっくり構えていたが、急遽ハノイ、となって私が日程は変更しないと伝えたので、慌ててホテル等予約した。あっという間にホテルというホテルは記者団他随行員の様々な予約でいっぱいになり、街はいつもの何倍も活気を呈し、ごった返した。

 

 

旅の目的は、日々減り続ける日本人の労働人口のせいで日本の労働者の争奪戦になり、うちのような弱小の企業は人件費の高騰と人手不足に悩む。人件費が高騰する割には新人職員の質は下がり続け、新人たちのやる気のなさ、いい加減さを見ているその他の先輩職員がやる気をなくすという悪循環になっていた。そのため、思い切って4月の法改正を睨んで他の企業より少し早く動き出すことにしたのである。これより早くても(EBAなどは国があまりにも外国人労働者側を保護しすぎたため、企業の出し前が多すぎてダメだったし、これより遅くてもダメだと思う。私は、(信奉する祐徳稲荷さんのおかげで)ほんの少しの微妙な間に飛び込んで、ハノイの地に立った。

 

うちの事業所と来てくれることになるベトナム人労働者の間には、日本側の人材紹介の会社とベトナム側の会社が介在する。いいのか悪いのか分からないが、上記の時期を含めて会社の選別も勘に頼らざるを得ない。どの会社にしても実績がないのは同じだ。

 

 

 

 

#早朝5時半に自宅を発し、13時半ハノイ着。初めてのベトナムはスモッグで終始濁った色の空だった。日本も昔こうだった頃があったよな。四日市ぜんそくとかがあった頃。沢山の、50佞離丱ぅが走る、走る、走る。車も隣と接触しそうに近く、しかも結構なスピードで、事故もなく走る。明らかに、日本人よりハノイ人は運転が上手いらしかった。結婚式に向かう車あり(てっぺんに花束を載せている)、豚を満載したトラックあり何もかも雑多に、その間に挟まれて50侫丱ぅに3人、大人の間に子供を挟んで3人また4人で乗っている。ぎゅうぎゅう。豚もトラックにぎゅうぎゅう。車もバイクもみんなぎゅうぎゅう。

 

 

 

#ベトナムに行く前と行った後、ベトナムの印象は変わりましたか? と事務所の女の子に聞かれる。

ううむ・・・・ 私は行く前、ベトナムについてどう考えていただろうか?

 

敢て聞かれると、もう私の記憶は上書きされてしまって原型は消去している。

 

ただ、私がベトナムについて知っていたのは、ベトナム戦争、サイゴン陥落、サイゴンから来た妻と娘(近藤○○著)、枯れ葉剤、ベトちゃんドクちゃん、最近はベトナムからの出稼ぎ労働者が増えてきている、国民性は日本人と似ていて真面目で勤勉な人が多い。そんなものだろうか。つまり、ベトナム戦争関係と、最近の出稼ぎ労働者以外は殆ど知らない。行ってみたベトナムはもっと動的で、ベトナム戦争の影響は消えつつあった。ただ、野良犬や野良猫は全く見かけなかったが、君ら、食べちゃうんか?

 

 

 

 

#私の出題した問題は、国語、算数、社会、一般常識として、「消毒」について何でも知っていることを言え、はしか、水疱瘡、おたふく風邪等は罹患しているか。芸術系で歌か絵かどちらか一つ、体育として反復横跳びをさせた。11人の中で選抜は3人。多分こんな問題を出した試験官は後にも先にも私だけかも知れない。その人がどういう人なのか自分の言葉で語って欲しかったが、履歴書の志望動機はありきたりな就職のための履歴書の文章が、しかも5人分ほどは一字一句違わず同じことが書いてあった。

 

 

国語についてはベトナム語の、新聞でも何でもいいから用意してくれ、と通訳に頼み、ベトナム語の詩が用意され、壁に投影した。時事問題について新聞が良いがナァ、と思ったがそこは急に頼んだので仕方ない。日本に来たら最初の日本語の手ほどきは私がするつもりだが、ベトナム語が読めない奴に日本語が読める訳がない。引っかからず読めるかどうかを見た。そのくらいなら、アルファベットに記号がついている文字だったのでっ読めているかつかえているかくらいは私にも分かった。

 

算数は、7を9回足せ、8を6回足せ、これは7を9回足すとは7×9のことだと分かっているかどうか、正しい答えが言えるかが聞きたかった。しかしおバカな通訳が勝手に7×9は? と言ってしまっていたらしい、ということは後で分かった。11×11、12×12、13×13は気が利いた人なら日本人は覚えている人が多いが、受験者は筆算でする者が多かった。1人2人が即座に答えた、会社がやっていた算数のテストもこの二人は満点と97点だった。

 

 

社会。ベトナムの地理的なことが一番良さそうだと思った。しかし、私はどこも知らないし、受験者には旧南と北の出身が混ざっているはずだ。どうしても、歴史の話が出てきそうな気がした。歴史が出てくるとまずいかもしれない。受験者の中には祖父母、親戚を亡くした者もいるかもしれない。沖縄や終戦記念日、ヒロシマが日本にあるように、アメリカにリメンバーパールハーバーがあるように、この土地には忘れられない傷跡があるのだろうか? ベトナム戦争について私は知らなさすぎた。日本に来ると言うからには世界の国の知っている名前を挙げるよう言うと、アジア、ヨーロッパが出てきた。イラクが出た。アフリカ、南米、オセアニアは一つも出てこなかった。

 

 

反復横跳びは、この国の人達は全く知らないだろう。仲介業者は20リットルのタンクを持ち上げられるかどうかで腰痛を見た事業所があったと言うが、なんだかそれは非人間的な気がした。そこで、縄跳びをさせようと思ったが縄跳びを持って行くのを忘れた(!!)ので、反復横跳びに切り替えた。指示に従ってそつなくこなす人、説明してもよく分からない人、それぞれだが、概ね若い方が飲み込みは早く得点は高かった。

 

 

歌か絵は、一人を除き皆歌を選んだ。勿論全てベトナム語。一人秀でて目を引いた者が居た。決して上手ではなかったが、胸を打った。3才の子を母親と夫に預け、単身3年間海を渡る。その間家には帰らない。よほどの事情があるのだろう。

「何でもします、頑張ります、チャンスを下さい!」

 と、少し涙ぐみながら必死に歌う歌に、どういう意味の歌かと聞くと

「母の恩に感謝する歌です。」 ・・・・さしずめ、「母さんの歌」みたいなやつか?  この人は採用した。28才だったが、少し年かさのが居て、若いピーピーを支えてくれる構成が良いだろう。

 

一人アホなのがいて、歌詞を途中で忘れ、歌い止まると通訳が脇から歌詞を教えている。しばらく歌うとまた止まってしまう。何の歌か聞くと、「国歌です。」 ・・・爆笑。

国歌忘れてどうする!!  短い曲を選び、あっという間に終わったやつ、童謡を振りをつけて歌った子など。概ね皆歌はうまかった。

 

 

一人だけ絵を描いた子が居て、薔薇の花の絵を鉛筆でさっと描いた。絵は下手では亡かったが雰囲気が変わりすぎていて、うちの事業所の雰囲気に合いそうもなかった。

 

結果として、役に立ったのは算数と芸術。個性がはっきり分かって選抜の参考に大きく貢献した。

 

 

最後に来てくれたお礼に、折り紙で小さな箱を折って、好きなだけ持って行きなさい、と言った。まさかこれも審査の対象であるとは思わないだろう。取り方や表情にも個性があるのではないか。何しろ言葉が通じないのでノンバーバルな方法でしか個性を汲み取ることが出来ない。通訳は可愛いいい子だったが、通訳の腕はかなり怪しかった。母の歌を歌った子は、一つしか取らない。飴の袋とマーブルチョコレートやアポロチョコレートの入った△の小さなパッケージがあったが、飴を一つだけ取った。

「沢山持って行っていいんだよ?」と言うと、「後に待っている人がいるから、自分だけで取ってしまいたくない」この答えも合格の後押しにはなった。3才の子のために、持って帰りたいだろうに。

一つしか取らなかった子が他にも居た。絵を描いた子である。「いくつでもいいんだよ?」と言うと、「飴は嫌い。」

おいっ オマエ、良い度胸だな(笑)。

 

 

消毒については、この手のタイトルをいくつか考えて行くべきだった。済んだ子にまだの子が問題を聞くために、答えが皆一様になってしまった。はしか、水疱瘡などについてはかかっているかどうか分からない者が多かった。しかし、破傷風という言葉は時々出てきて、破傷風のワクチンを受けている者が複数居た。ということは、日本では赤ん坊の三種混合ワクチンをほぼ全員受けるため破傷風での死亡は聞かないが、この土地には破傷風で死ぬ者が出るのかもしれない。

 

 

11人を出来るだけ丁寧に面接すると、外はもう真っ暗になっていた。でもはるばるこのために来たのだ。時間は足りない位だった。初見で11枚履歴書を渡され、すぐ面接し、その場で合格者を決めることになっていた。2人は私とT子さんが一致してすぐ決まったが、3人目で顔が可愛いけどアホなのと、がみっとした顔だけどそこそこ優秀そうなのとで迷い、結局T子さんの意見を聞いて優秀な方にした(>当たり前だろう)

合格した子と一緒に写真を撮り、創立記念40周年の名入りのボールペンを渡してきた。合格者は全寮制の日本語学校に移る。授業料はうちが出すことになっている。不合格者は来週また別の事業所の面接を受ける。8ヶ月日本語を学んで、N4という日本語試験に合格すると日本に渡航し、更に40日ほどの日本側の仲介業者の研修所で研修を経てうちに来ることになっている。来るのは1年近く先だ。

 

さて、この計画はうまく動くのだろうか????

分かったのは問題山積だということだ。

 

 

 

 

 

 

#翌日9時、チェックアウトすると、夜中の2時まで私たちに居場所はない。取りあえず世界遺産のハロン湾に行くことになっていた。ドライブすれば、私たちには車という居場所がある。車は8人乗りのやつで運転手、通訳、私、T子さん、仲介業者の5人で乗った。ホテルを出るとすぐ、キムジョンウンの帰国行列渋滞に巻き込まれ、3時間の予定が5時間かかった。運転手がすまながって落ち込むので困った。でも私は、町並みをゆっくり見られて楽しかった。自分の住んでいる街など面白くもなんともないが、ここは違う。二度と来ないかもしれない。どんな街だとしても面白かった。

 

 

 

印象その他。

1.トイレがどこも汚い。簡易水洗で事の後に脇についているシャワーで流すようになっている、床がそこら中水浸しで、汚らしかった。壊れて水が流れないまま放置の便器も沢山あった。トイレットペーパーはないのが普通で、手洗いの洗面台の水はどの台も全く出ない。大きなサービスエリアのトイレでさえこうである。外国人だけが、どうして良いのか分からず、トイレのブースに入ってみては汚くて飛び出し、次のブースを覘いて・・・とうろうろしていた。

 

かなり高級そうなレストランもトイレは汚かった。帰国してからあのトイレについている金属製のホースのシャワーは流すためにあるのではなく、尻を洗うためにあると聞いた。だから床がびたびたに濡れているのだな。昔、ヒデとロザンナという夫婦の歌手がいて、イタリア人のロザンナが日本に来たばかりの時、壇になっている和式トイレの使い方が分からず、生尻で座ってしまったと言っていたが、トイレの使い方というのは各国とても違う。最初に確認していくべき事だと思った。

 

 

2.生水を飲まないのは常識なのでそれはいいとして、自販機、コンビニはない。ホテルにはペットボトルの水が2本(350CC)が用意されており、あとは業者さんがタダでいくらでもくれた。しかし、レストランで「何か飲みますか?」と言われたとき、つい「檸檬ジュース」と言ってしまい、しかし一口飲んで氷を見て、これはまずいかもしれない、と思った。日本で生水は絶対飲めないが、氷はその水を凍らせてあるので絶対飲むな、と言われていたのである。ふと前を見ると、間に入ってくれている業者さんのトップが、さっきから缶コーラしか飲まないのを見た。最初は男なのにコーラばかり、って珍しいな、と思ったが、そう、そういうことだ。缶コーラなら衛生上間違いはない(たぶん)。泊まったのは日系のホテルで、パッと目には綺麗だったが、朝の食堂レストランの窓のところにゴキブリの糞らしきものがあったし、部屋のカップはyoutubeの中国5つ星ホテルのトイレ掃除用タオル後タオルでコップを拭いていた隠し撮り画像ですっかり気持ち悪くなっていたので、日本から持ってきた99.99パーセント消毒という不織布でよく拭いて、湯を沸かして熱湯で流し、ドライヤーで乾熱をかけてみた。ともかく無事には帰れた。

 

 

 

私は細心の注意を払って無事帰国したが、連れのT子さんはグァバの生ジュースを飲んでお腹を壊した。火の通ったものだけ食べようと熱々のものを頼んでも、フォーがつけ麺式だったり、清潔操作で作られているとは限らなかったり。どこに行っても恐る恐る食べた。着いた日、ホテルのフロントでカップヌードルのシーフード味が山のように積まれていたが、翌日全部別のカップヌードルになっていた。みんな心配であれを食べるから売れるんだろう。福子さまさまだ。向こうの人はどうも無さそうだが、たぶん腸内細菌叢がベトナム仕様になっているのだと思う。

 

 

2日目の昼食を取ったレストランは見てくれから全く清潔とはほど遠い感じのレストランだった。「ここは美味しいと評判の店」なんだそうだが、入り口には鳥かごが5つも6つも吊ってあって、「この下で食べるのかようっ!」と、実はすぐにも逃げ出したかった。インテリア的にはコンクリート打ちっ放しに近い工場の内装にでもありそうな緑色。階段は急で踏みしろは浅くカーペットはべたべたに濡れて滑りそうだった。ようやっと4階まで上がると、窓が高く採光が悪く、なんだか刑務所のようだ。私は顔には出さない方だが、T子さんはもろ顔に出るので、自分でも反省していた。

 

私たちの空気を察して、業者さんが「この店はオバマ大統領が来て食べた店だ」(オバマとベトナムの首相?)との壁の額入り写真を見せる。でも誰が来ていたとしても、店の衛生状態に影響力はないらしかった。

 

 

 

 

ハロン湾は世界遺産で、鍾乳洞がすごかったが、これが見たくて来たわけではない。観光のあとマーケットを少しうろついて疲れ果てて空港に転がり込む。食欲のない中、ピザでお茶を濁し、業者を帰し、帰国の途につく。

夜中の2時にハノイムンバイ空港発、午前5時(日本時間午前7時)に福岡国際空港着。

現実に戻った博多は冷たい雨が降っていた。

 

 

 

 

 

 

#『開店休業 たばこ屋ダイアリー』23年間のお付き合い 深く御礼申し上げます。

 

 

 

スピンオフをよろしく。

早咲きの桜

 

#あれからナスカ夫妻は更にどうなったか、というと。

 

 基本的には元に戻ったが、若干違っている。なぜか夫がゴミ出しをするようになった。そして「皿洗いは僕がするからいい」と言うようになり、食器洗い機に入れるだけだが、夫が皿を洗っている。それから、洗濯物は自分の分は自分でするがうちのならいだったが、時々、夫のほうにこっそり靴下とかパンツとか、目立たない物を入れていたナスカさんはそれをしなくなった。特に何という話し合いをしたわけではない。

 

そして先日一言ポツリと、

「俺、ナスカがこんなに強い人だとお見合いの時知ってたら、結婚しなかったかも知れない・・・・。」というので爆笑。何を今更。ふん。(笑)結婚して数十年、猫をかぶり続けてきた私凄い。

 

 

 

 

#去年の4月、たばこ屋ダイアリーはあと1年、月1で12本で終わりにする、と書いた。長年読んでくれていた方から、「やめると言うな、ぼちぼち書いていって、ああ あれが結局最後のページになったなあ、でいいじゃありませんか、」というツイッターをいただき。そうですねえ・・・・ ワカリマシタ。4月以降は時々、または稀に、スピンオフを書くということでひとつ。でもそんなの読む人いるかな。

 

 

jugemは無料のアクセスログがついていて、JUGEMのログがホントかどうか分からないけどこんなぶらぶら更新でも読んで下さる方がいるらしい。良い時代になったものだ。これを始めた頃は読み手は自分でスカウト(笑)して来ないと駄目だったもんナ。

 

3月、本編最後の日記はベトナムの話を書くつもりだから、今月はこういう日記にすることにした。

 

 

 

 

 

#某文集にて最期のページに挨拶文を書いた。そのままをコピー&ペースト。

(本当にこういうタイトルなんですよ。最後のページだから)

 

 

 

終わりの挨拶

 

私の好きなもの/パリブレスト/殻付きのヘイゼルナッツ/ジャック・プレヴェール 小笠原豊樹訳「夜のパリ」/プリンタルト/雨の日の黄緑色の傘/iPad/iPhone/詩/しだれ桜/お稲荷さん/銀狐/動物行動学/北原白秋「落葉松」/于武陵「勧酒」井伏鱒二訳/谷川俊太郎「生きているということ」/うな重を家のご飯で食べる/我が道/お菓子の入った綺麗な缶/カレンダー/挿し木した紫陽花の根が出たかどうかひっこ抜いてみること/タイムトラベルものSF(夏への扉、時をかける少女など)/万年筆/南佳孝「昼下がりのテーブル」/Billy Joel「ピアノマン」/観覧車/モノレール/ケーブルカー・ロープウェイ・リフト/東京タワー/旧友と行く花見/時計/離陸した飛行機から見る夜景/自分の言葉を語る人/渦潮/橋/マテガイ掘り/ジグソーパズル/誠実さ/独創的であること/傲慢でないこと/モネ「日傘の女」/ルノアール「イレーヌ嬢」/神社/ハーバード白熱教室/イヤリング/マツダ・ブルー/鈴木英人 (バックミュージック;My favorate thing by Judy Andrews)

 

 

 

 

好きな物を並べてみた。

 

自分を顧みて、思い通りの現在であるか考えてみる。そもそも思い描いたなるべき自分像が、若い日の私に、しかと描けていなかったことが今日私の最大の敗因である。目標がないものは進みようがないではないか。人生で大切なのは「健康、、目標を持つこと、気合い」であると、後進には伝えたい。

 

健康は最も大切なもので、これがないと何も出来ない。健康であるならば目標を持て、そして気合いで乗り切ってゆけ。

「何処に行こうとしているのか分かっていなければ、どの道を通ってもどこにも行けない。」(キッシンジャー)

 

 

 

今年3月無事還暦を迎える。40才の不惑の時も、50才の天命を知る時も、それぞれ法人Nの20周年、30周年と重なっていたはずなのに何も覚えていない。感慨に浸る余裕も、今がその時なのだと自覚する余裕もなかった。食っていくのは、そうした余裕をなくすほど大変だった。N会が次の10年をどのように生きていくのかはひとえにスタッフの皆さんにかかっている。

私はもう子供を手放して、食っていくのに必死にならねばならない年齢を過ぎたが、若い人達はこれからここで仕事をして稼いで食っていかなくてはならない。どうか、頑張って欲しい。

 

N会が無事に50周年を迎えることが出来ますように、祈りを込めて。 

 

平成31年(2019年)3月吉日 (平成の終わりの年に)