年賀状考

 


 

#佐賀にある祐徳稲荷神社に左馬が飾られていた。

 

-----「うま」をから読むと「まう」と読めます。「 まう」という音は、昔からめでたい席で踊られる「舞い」を思い起こさせるため、「左」は福を招く縁起のよい駒とされています。 「」の字の下の部分が財布のきんちゃくの形に似ています。 きんちゃくは口がよく締まって入れたお金が逃げていかないため、古来から富のシンボルとされています。」-----

 

知ってました? 知らなかったなあ。私の祖母の叔父に 左馬 という名前の人がいたにもかかわらず、である。祖母が左馬という言葉を知らなかったとは思えないが、親戚の左馬氏は東大受験に失敗して、追加の学費依頼を郷里に頼んだのだが、手違いで連絡が遅れ、これは学費を送ってもらえないのだと勘違いした彼は多摩川に身投げして死んでしまった。祖母は明治39年生まれでその母親の弟だから、明治10年とか20年とか、その頃のことと思われる。なので左馬がおめでたいとは思えなかったのかもしれない。

 

左馬、を見ながらそんなことを思った。

 

 

 

#ソルトレイクシティに住んだとき、通っていたユタ大学の語学教室の先生とずっとクリスマスカードを交わしていた。途中で私が挫けて(英語書くのが面倒になって)やめそうになると「Always keep contact with me!」と書かれていて 再びペンを取らざるを得なかった。ところが、もう5,6年前になるだろうか。突然先生の方から「クリスマスカードは今年限り」と言ってきた。「定年を機にアラスカの娘がお産をするので、仕事をやめて引っ越し、孫の面倒をみることになった。別れを悲しまないでくれ。」悲しむっていうか、びっくりしたよ、先生。

 

2、3年前。大学の1期上の先輩が、病気をしたらしいと、話には聞いていたが、 「年賀状はこれで終わりです」と書かれていて相当驚いた。父の旧制高校の同窓会が「解散」した、と聞いた時も、同窓会ってのは終わるのもなのか!・・・・と思ったが、年賀状も終わるものなのか。しかし一別以来三十数年、ここまで毎年毎年やり取りがあったことのほうが驚きなのかもしれない。

 

一昨年は、郷里に帰って就職したときの先輩が定年を迎えたのだが、「定年を機に年賀状は書かないことにします。長年のご厚情ありがとうございました。」とあって、これも相当驚いた。私が知らなかっただけでそういうものなのか。つめたーい、と思うけど、虚礼廃止と言われればそうですか、とならざるを得ない。そういえば定年退職をすると年賀状がどっと減って寂しいという話を聞いてことはあったが。

 

子供たちも、親しい間柄はネットが発達しているし、若い間は転勤とか同窓生は卒後進学や就職で引っ越すので年賀状は殆ど書かないそうだ。

ナスキ「今は、名簿も個人情報とかで出ないので、書きようがないんだよ。」

・・・・そうですか。

 

 

 

世の中がそっちに動いているとなると、私自身のことも考えないとねえ、と思う。いつも50枚くらい書いていたけど今年はプライベートでは30枚しか買わず、ネットが使えないジジババ族で欠礼できない方をメインに持ってくる。ネットが使える人向けに、「年賀状は少しずつネットに移行する」との宣言を入れておいた(笑)。私でさえこのテイタラクなのだ。ジャパンポストが困ってハガキ代を値上げするというのもさもありなん、である。ネットの方には元旦にメールを送るようにした方が、結果的に正月以外の時の連絡もつけやすい。引っ越しその他の挨拶も簡単に済む。考えようによっては合理的だ。デメリットがあるとすると、その人の筆跡を見ることが出来ないこと、住所の確認が出来ないこと、だろうか。筆跡は性格がわかりやすい。人は会話の時、相手の表情や声の調子を読むけれども、性格、体調など、メールでは分からない。居住地は意外にその人の信用に繋がっている部分がある。うちは家電を外してしまったけれど、家電がないと信用に少し傷がつくかな?という思いは少しあって、使いもしない電話をずっと置いてあった。それに少し似ている。

 

ラインやfacebookやツイッターでの年賀挨拶って少し寂しいけれどこれでいいんだ、と思うことにする。本当に書きたいと思う人に余裕のある時だけ、綺麗な絵葉書や記念切手で出せばいい。携帯が使えないタイプのジジババ族が死に絶えたとき、年賀状文化はいよいよ廃れていくだろう。

 

元々新しもの好きの私としては、新しいやり方に遅れたくない(>そういう問題でもない)。 1995年ただの主婦だった私が新しもの好きだったからこそマッキントッシュに飛びついてパソコンの波に溺れ、後年仕事に就いた時も随分役に立ったけれど、若い人のやり方、特にシンキング(thinking)リズムについていけない(ラップとか?)と思うこともだんだん増えてきた。

 

 

 

 

#暮れに、ものすごく興味を惹かれたNHKのドキュメンタリーがあった。自閉症の男の子、東田直樹という人の話で、かなり重い症状の自閉症の子だった。小学校は普通小学校だったが全くついて行けず、中学に上がるとき、初めて自分の病気の症状を自覚し絶望した。知能が遅れていると周囲には思われ、通常の意思の疎通は周囲とは全くできていなかった。客観的に話を聞くと、よく普通小学校もその状態で通学できていたなと思う。全く理解しないままでは周囲もきつかっただろう。

 

お母さんはなかなかしっかりした人で、彼は文字に非常に興味を示したのでパソコンを教えた。彼は殆ど周囲と話すことは出来なかったがパソコンを通じてなら自分の意思を示すことができるようになり、人と情報のやり取りができるようになった。母親は彼の書いたものをまとめて出版した。本は少しずつ売れていたが、ある日ネットを通じてイギリスの世界的な作家の目に留まる。この作家は日本で英語教師をしていた経験があり、日本語が多少出来た。そして彼の息子も自閉症だった。作家は東田君の作品を高く評価するとともに、自閉症の人が自分(達)の頭の中で起きている状況を初めて世界に向けて説明した本としてあとがきを書き、自分の名前を帯に使って後援した。本は瞬く間に世界30ケ国(2016年現在)に翻訳され読まれるようになった。イギリスのとある本屋の店主が、この店で売れ筋の日本の作家は、1が村上春樹、2が三島由紀夫、3が東田直樹だと言ったのには恐れ入ったが、素人目にもこの本で自閉症という病気への一般理解、研究は飛躍的に進むだろうと思われる。

 

ドキュメンタリーの中で非常に印象に残った部分がある。

 

 

先にも述べた通り、彼が障害を抱えていることを自覚したのは13歳で、このとき普通校に通っていた彼は養護学校への進路変更を余儀なくされた。今の自分がこの時の自分にアドバイスするとすると何と言いますか?と聞かれて、「ありのままでいい」と一旦は答えました。しかし、書き換えます。「辛すぎる毎日を送っている僕には届かないと思う。『僕は人生は短い』という事実を伝えたい。当時の自分には、過ぎ行く時の経過は果てしなく、いつまでも降りられないぶらんこに乗っているみたいだった。でもそのブランコもいつかは止まる。一生懸命漕げば同じ景色も違って見える。」

 

この部分、私には衝撃的だった。数日後、再放送があったので録画したが、この部分だけは何度も繰り返し見た。

 

若干26歳の青年から「人生は短い」と言われると、胸がざわざわする。26歳の私は 時は早い、と思ってはいたけれど「人生は短い」と感じてはいなかった。小学生のころは、いつまでも小学校に通わなければならないのか、という気がしていたから、(小学校ってあまり楽しくなかったよな)(あの学校教育ってどうにかならないのかしら?)(中学、高校はまだよかったかな。)時が長い感覚は理解できる。その長いと感じる時間を絶望の中で毎日生きていくのは辛かっただろう。

 

人生は短い。口に出してみて、自分の言葉の重みが、彼の言葉とどれくらい違うか、探ってみる。ともかく、早速アマゾンでダウンロードして彼の本というやつを読んでみる。イギリス人の作家も言っていたが、東田君には彼の障害は辛すぎるものだっただろうが、自閉症の人、その家族にとって、彼の本は福音だろう。うちのスタッフも明らかな自閉症スペクトラムと思われる子供を抱えている人が数人いるけれど、自閉症とは一見あまり縁がない私の心にも、彼の言葉はしみ込むように入ってきた。私も、もうちょっと一生懸命、ブランコを漕いでみればよかったと、思っている。

 


 

 

#明けましておめでとうございます。

 旧年中は大変お世話になりました。

 今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

 2017年 平成29年元旦

                 ナスカ@たばこ屋ダイアリー

 

 

 

 

 

 

 

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時をかける絵葉書き

 

#母がいろいろ弱って少しおとなしくなったので、今まで捨てられなかった 母の人生のごみとも言うべき荷物を、妹と少しずつ整理しはじめた。人が住まなくなった実家の後片付けを嘆く内容の本は多いが、うちもどこから手をつけていいか分からない状態のまま、しかしこのまま放って置くと死んだとき処分料金がどっとかかりそうなので(2トントラック2台で8万くらいするし、それではとても足りない 下手すると100万くらいかかりそう)ぼちぼち片付けては処分している。妹が来るのは月に1度くらい。私一人で家に入っていじくるのも後になって問題になると嫌だし、妹が来た時に一緒に、となると年12回では大分時間がかかりそう。

 

 

改めてそんな目で自分の家を見ると、結局私たちが死んだとき家一軒全部がゴミで、子供の手元に残るのはいくつかの重要書類(権利書とか?)と写真、先祖の関係の書類くらいだろうか。NHKのファミリーヒストリーを見ると、先祖の事どころか自分の生きてきたこれまでを子供に語っていない人も多い。戦争があったりして話すのが辛いこともあっただろう。そういえば祖父は民間人として戦時中 中国に居たが、戦後も長く抑留されて帰国しなかった。祖父は中国語が出来たので、日本人抑留者と中国側の交渉を担当したらしいが(病気の人が出たから医者を呼んでほしいとか)最後の一人とともに自分は帰国すると言って帰国船が来ても帰らなかった、と聞いたのは祖父が老衰で死んでずっと経ってからだった。戦時中のことも祖母は祖父に書き残すことを勧めていたが、祖父はそれはしなかったし一緒に暮らしていた私にも何も話さなかった。

今、中国と日本は良い関係とは言えないが、祖父はずっと中国人が大好きで、テレビに中国が映ると必ず見ていたし、歌手何某が出ると、「がっぽり稼いで国に帰れよ、」とテレビに語りかけていた。中国の方に駐在中大変良くしていただいたに違いない。いろいろあったと思う。

 


そんなことを思いながら、父のものを分別していたら、年賀状の束が出てきた。昭和52年の束だけが、なぜかそこに残っていた。

昭和52年は私が大学に入った年である。

他に書簡の束はない。厚みにして15センチくらい。業者のものを処分し、友人、知人(らしきもの)、親戚関係に分け、あいうえお順にソートした。

と、そこに絵葉書が一葉。あて名は私宛だった。見た覚えはない。絵は日光東照宮の唐門の写真だった。

 

差出人は祖母からで、元気ですか、に始まって「テストは終わったのか、こちらの学校の案内書を送るから検討資料にするように、用はないとは思うが、」と書いてあった。事情はよく分からない。私は小学校卒業時、父が郷里に帰る決心をしたのに伴い、同居して育ててくれていた横浜の祖母と離れたのだが、消印は昭和49年7月7日のものなので、祖母と離れて3年めの日付である。父は私を高校から再度東京に出して、どこかエスカレーターの学校にやることを考えたのかもしれない。祖母に頼んで資料は取り寄せたものの、私にその話はなかった。少なくとも記憶にはない。

 

 

 

ともかく、私の手元に便りは届いた。

 

天の川の7月7日の日付で。

 

42年の、時を超えて。

 

 

・・・・しかし、どうして昭和52年の年賀状の束に、49年発信のこのハガキだけが紛れ込んだのだろう?

 

 

 

#そういえば去年は祖母の7回忌で、叔母にどうするのか聞いてみたが 「もう出来ない。」というのが叔母の返事だった。さんざん世話になった祖母に年忌法要もしてやれないのかとがっかりしたが、祖母が「もしも困ることがあったら成田山にお参りにいきなさい。良く聞いてくれるから。必ず覚えておくのよ。」と言われていたことを思い出して、成田山に納経することにしたのだった。私にはこれがその返事に思えた。

 

死んだ人にも手紙は届く。

 

そして、死んだ人からも、便りは来る。

 

「私は死んでも必ずあなたを見守っているから。何もしてあげられなくても、声が聞こえなくても必ずいつもそばにいる。忘れないで。」 祖母はそう言った。母性本能バリバリの人だった。

いつも見守ってるって? 

 

トイレでも? 

エッチのときも?(もうしてないけど)

 

それ、ちょっと引くかも。ばーちゃん。

 

 

ともかく、私が出した成田山経由の便りは、届いたんだな。ハガキは届いた合図のように思えた。

 

 

 

#孫の金ちゃんは、声を立てて笑うようになった。

可愛いでしょう、と人によく言われるけれど、可愛いのかどうかよく分からない。ただ、ナスコの赤ん坊のころによく似ている、と思う。親が私を心配したよりもずっと私は娘を、うまくやれるのかどうか心配しているが、ナスコがラインで送ってきた声を立てて笑う動画を夫に見せたら

夫「屈託のない安定した笑顔の赤ん坊じゃないか。ナスコも頑張っているんだよ。」

 

はらはらしながらゆっくり遠ざかる機影を見守る。

 

 

さて。年内日記の更新は出来ないかもしれません。後はツイッターかfacebookにします。ちょっと早いけど年仕舞のご挨拶です。どちらさまもよいお年をお迎えください。この日記は還暦までは、月1で更新しようと思ってます。>ところで還暦はいつだい?

 

 

 

 

 

 

 

 

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霜月は急ぎ足で

 

メインバーナー点火

 

#早く書かないと、日記が一か月飛んでしまうと思ってはいたけど、気が付けば11月ももう4分の1終わり。気ばかり急く。そしてダイアリーは一ヶ月飛んだ。

 

#この間、鍋ケ滝日帰りと、日田、大分を回る一泊の旅行と、佐賀バルーンフェスタに日帰りで行ってきた。

鍋ケ滝の日帰りは、あんまり昔で忘れてしまった(!!)

日田は日田醤油というお店屋さんで無料のお雛様公開というのをやっていて、ものすごい数の江戸時代のお雛様が展示してあった。いずれも今拝見してもいかにも価値の高そうなものだったが、それよりもどんな人が誰のためにこのひな人形を作らせたのかと考える。いずれもどう見ても特注品。無料で見せていただいたのに恐縮して醤油でも買っていこうか、と言うと、

夫「醤油と味噌の味は育った味が忘れられないとあんたいつも言うじゃん。」

・・・・まあそうですね。

と、焼き肉のたれがあった。

ナ「焼き肉のたれにしましょう!」

夫は1リットル瓶を自分が持つことになるので嫌そうだったが、なに、食べるのも夫なのである。

 

 

お腹すいたな、と見回すと、蕎麦、と書いてある町家の入り口を入ると草ぼうぼうの中庭、古井戸の奥に風情のあるそば屋があった。時間も昼には遅く空いていた。私はいつもの冷やしとろろ蕎麦定番。

 小学校2,3年くらいだろうか。お嬢ちゃんがお客の皿の後片付けを手伝っていた。お勘定にレジに行くと店主風の男の人が

 「小さいのがちょろちょろしてすいません。手伝いたがるもので。」とおっしゃる。

ナ「いい跡取りさんがいて良いですね。羨ましいです。」と答えた。

 

ちょくちょく来たいんだけど、遠いんだよなあ、大分って。

 

 

 

#佐賀バルーンフェスタはまだ日曜のことなので記憶に新しい。

 去年の佐賀バルーンフェスタの後に愛犬のクーが死んだのだった。悲しくて行きたくないと思ったが、夫が

「今年は3年に一度のインターナショナルバルーンフェスタで、気球がいつもよりずっと沢山飛ぶんだってよ?」 

・・・・行く!!

 

ちうわけで出かける。バルーン競技は午後2時45分からだったので、朝出て信心しているお稲荷さんの祐徳稲荷にお参りをし、商売下手な門前町のイマイチのちゃんぽんを食べ、昼過ぎにネットに繋いで初めて知った、、、その前日インターナショナルバルーンフェスタに爆弾予告があって、3万人が避難する騒ぎになったとのこと。

ナ「どうする? 行く?」

夫「行くさ! ここまで来たんだから。」 行くよねえ・・・。

ウーン・・・・ まあ、たった今祐徳さんにお参りしてきたから、今ならまだお守りが付いてきてくれているだろう。

 

 

ところが風が強くバルーンが上げられない。数万の観客がいつ上がるかと待っている。露店もたくさん出て、お客でごったがえしていた。2,30分待ったころに、予定の3種目競技はやめるが今から気球を上げる旨のアナウンスがあり、広いトラックにいくつも敷かれていたシートが膨らみ始めた。なんとシートと思っていたのはバルーンだった。

 

目の前のトラックでバルーンが大きな扇風機の風で横向きにどんどん膨らみ、しかし強い風にあおられてバルーンが横向きのまま大きく凹んでしまう。何度もトライ&エラーを繰り返し、バルーンが斜めに立ち上がってくるとガスバーナーで熱気を送る。ヨタヨタとバルーンの籠が浮きはじめ、綱を離すとふわりと浮かぶ。ま近でこんなのを見るのは初めてだった。

 

バルーンは用意が出来た者からどんどん浮き上がり、空いっぱいに沢山上がった。そして川の向こう岸、それぞれが決めた降下地点へ飛び去った。こういう時、みんなどんどん行ってしまうのに自分だけ残るバルーンはさぞ焦るだろう。

 

 

 

#ナスコの赤ちゃん、金ちゃんは元気に育っている。3ヶ月になり、少し首が座りかけてきた。10月、遅い夏休みを取った婿が、実家に帰って親の顔が見てきたい、と言い、ナスコはまだ2ケ月の首も座らない赤ん坊を連れていくわけにもいかず、こちらに残った。彼の一家は全員で湯布院に泊りがけで遊びに出掛け、ナスコは悔し気に自分の実家に帰ってきた。普通まだ首がぐらぐらして買い物にもなかなか連れてはいけない赤ん坊と床上げをやっと終えて実家から戻ってきた妻を置いて、勝手な婿だなと思うが、私はもともとこの婿が気に入らないのであの男ならまあそんなもんでしょうよ、と思う。ナスコも私の反対を押し切って結婚している手前、口には出さなかったが心中推して知るべし、である。

 

あんな男と暮らして楽しいかねえ・・・・。しかしまあ、概ね楽しそうには暮らしている。しかし、私としては3歳くらいになって保育園でどんなことがあったか話せるくらいになったら、パートでいいから仕事に復帰させようと思っている。あの男では先行きどうなるか分からない。

 

 

#ナスキは高校の同期で現役でダブらず進級した子は、今度4大を卒業し、就職する。ナスキはまだもうちょっとあるが、そろそろ一人前扱いしないと、かなと思っている。(>まだしてなかったのか?)年の割に奥手な子なので心配していたが、やっとしっかりしてきてそろそろ9割は目を離しても大丈夫かなと思えてきた。あとは、自分でやっていくしかない。

 

 

 

#事務所のスタッフAは、9月下旬に急に忌引きで休んだ。夫の兄が8月下旬に亡くなっていたのだが、ちょうど亡くなる数日前、奥さんと離婚調停に入っていた。もともと心臓が悪くペースメーカーを入れるよう言われていたが、我儘な人で人のいうことなんか聞かなかった。DVで奥さんを殴ってばかりいて、奥さんはいつも顔に青あざを作っていた。娘に引っ越しの手伝いに来てもらい、妻は「じゃ、私はもう行きますよ。」と玄関口から声をかけた。夫は飲んだくれて寝たまま、「ああ、」と言ったか言わなかったか、妻も娘もはっきりした言葉は聞いていない。

 

その数日後、心臓のアタックで急死した。食卓には買ってきた惣菜があり、食べたような跡があった。エアコンがずっとかけっぱなしで一度もカーテンが開かないのを近所の人が不審に思い、民生委員が庭から覗いたら、人が横たわっているようなのが見えたが、猛烈な数のハエが家中を飛び回り、悪臭がした。警察の処理班が来て、窓を開け、ウジがたかりまくった死体を専用のビニール袋に入れ、チャックをし、司法解剖に持って出た。他のスタッフが窓という窓を全部開けた。夥しい数のハエが、一目散に空に向かって駆け抜けた。

 

チャックを開けたのはどこのスタッフだろうか。気の毒に・・・。ウジを洗い流してからの解剖だろうか?殺虫、消毒薬に漬けるのだろうか?? あっさり死ねて死んだ人の死に方はいいが、後が悪かった。家族にも迷惑をかけまくった。別れかけていた奥さんは事件じゃないかと疑われたが娘が一緒だったしペースメーカーのこともあって疑いはすぐに晴れた。

 

別に死んでからウジが湧こうが家が臭かろうが誰に迷惑をかけようが構わないというならつける薬はない。死に方、というか、そこに来るまでの生き方の問題である。

 

 

#小学生の娘が一人いる気立てのいいスタッフKが、いきなり改めてやってきて、「実は離婚しました。」という。驚いてしばらく言葉がなかった。ナスコの1歳年上の彼女は夫とのなれそめを話していて(嫁に貰いに来てくれたとき親に)「私を世界で一番幸せにしてくれる人なんだから」と言った話を聞いていたからである。しかしその後何かの時にその話を出してからかったら、「あの時は、・・・そうだったんですけどね。」みたいな言い方をしたので一瞬引っかかったが仕事のことで忘れてしまっていた。ナスコがそう言ったなら、私は聞き逃しはしなかっただろう。もう少し話を聞いてやればよかった・・・・。

 

ナ「それで・・・名前はどうするの?」

K「今のまま行きます。」

ナ「もとは何という名前?」 

K「K○、と言いました。」

ナ「・・・・K○の方がいいんじゃない? 名前としては綺麗な名前じゃない?」

K「そうなんです。私も、(相手の名前は)もう見たくもない嫌な名前です。でも子供が・・・名前が変わってしまうので・・・ただでさえ不安定な思いをさせているのに、この上負担をかけたくなくて・・・。」

ウーン・・・・。そうか。

ナ「別れる理由を、聞いてもいいかな。」

K「構いません。別に女が出来て家に帰らなくなったんです。お金も入れないし。たまに帰ってくるとものすごい言葉のDVで・・・」 聞くに堪えない。

 

私は悔しい。

 

私は、とても悔しい。

 

 

 

別のスタッフとも最近同じような話をした。独身で子供が二人いるのは知っていたが、

「入舟美波(仮名)」って、綺麗な名前ねえ。今まで見た中で一番きれいな名前だわ。」と言うと、

「ええ、でも、別れた旦那の名前なんです。見たくもない大嫌いな名前だけど、子供たちの姓が変わると学校でいじめられるといけないので・・・・」

 

こんな話、多いのかな。最近夫婦別姓とか、仕事上で旧姓を使うことが裁判になって敗訴しているけれど、今の法律は男が明治時代に男社会として作ったもので、未だに特に法曹界には男の感覚が残りすぎている。私の職場では離婚している人も結構いるが、殆どの人が夫からは慰謝料も養育費も貰っていない。その上夫の姓を名乗れというのはいくらなんでも無理がないか? 裁判所は現実を知らないにもほどがある。

 

 

いつか、もう少し女が生きやすい日本にするためには、もう少し積極的に女が沢山世に出て働かねばならない。103万以下だの130万以下だのケチなこと言ってないで、きっちり一人前働いて自前の健康保険と年金を持つべきだ。サラリーマンの奥さんの年金額は月8万円だと知っているのだろうか? これでは夫に何をされても、仕事をして来なかった女は離婚できない。もっと女が有利になるために、たくさんの女性に働いてほしい。私は痛切にそう思っている。そうしないと、男社会が出来上がっている今の日本で自分たち女が生きやすい社会にすることは出来ない。

 

 

 

#頭のおかしいクレーマーに追いかけられて10日ばかりは仕事にならなかった。最近精神科は本当に頭のおかしい人を「人権」の関係で病院から在宅にどんどん返しているが、そのために起きる殺人事件や致傷の多いこと多いこと。何とかしてもらいたい。

 

#長々とすみません。何しろ一ケ月半分なので・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ナオザエモンの碑

 

 

#亡くなった父が、大切にしていた先祖がいる。ナオザエモンという人物で、天保3年、1832年の生まれであるから180年ばかり前の人、ということになる。

西郷隆盛の戊辰の役に従軍して、西郷の弟と共に長岡の激戦で亡くなった。

 

死後どういう状況だったか分からないが、近くの金谷山というところに双方の戦死者は合祀されたらしい。父が元気だった時にナオザエモンの墓参に行こうと言ったことがあったが、私はまだ若くて全く興味のない年頃だったし、父は一緒に動くには非常にめんどくさい人だったのであっさり断った。鹿児島から墓参団が結成されて、その人々と共に父は出かけて行った。

 

幕府はもうだめだから官軍に恭順したいと思っていた人は長岡藩にも多々おられたようだが、結果として、両者は激しい戦闘に突入した。長岡藩には河合継之助という優れた家老がいて、戦闘は熾烈をきわめた。そしてうちのナオザエモンは、腰の辺りに被弾し、一か月後に亡くなっている。おそらく敗血症か、破傷風でなかったかと思う。西郷の弟とともにこの地で亡くなった。

 

西郷隆盛は弟とともにナオザエモンも弔って下さり、京都の通天橋の紅葉で有名な東福寺の一角に立派な弔いの碑を建立した。そこに、ナオザエモンの名前も刻まれている、私も妹や母と共に何度か見に行った。我々の郷里は通称谷山と言われるところ。越後の金谷山(かなだにやま、と言うのだろうか?)の名前をナオザエモンは見ただろうから、死ぬ間際きっと故郷を思い出しただろう。帰りたかっただろうと思う。

 

 

 

#数年前のある日、地元のふるさと谷山まつり、という賑わっているんだかいないんだか分からない田舎の祭りをぶらぶら歩いていた。数冊本を並べて素人臭く本を売っているのを見かけた。「谷山の歴史と文化財(谷山観光協会発行)」・・・・ふーん。一冊買ってみる。帰宅してぱらぱらと読んでいてびっくりした。「東谷山、安◎さん宅にある碑」には 大脇某、鬼丸某、◎◎直左衛門・・・・ え? ナオザエモン??? うちの! うちのナオザエモンだ!! 安◎さん敷地内にあるが頼めば見せてくれるので見たい人は行ってみなさい、と書いてあった。

 

碑文は、むかしこの辺りは湿地で、鶴が沢山渡来していたのを、捕獲して飼育していた。文久4年、鹿児島一帯に疱瘡(天然痘)が流行って、その疱瘡のできものに鶴の膏(あぶら)を塗ると効果があると藩主忠義公が聞いて飼育の鶴を膏にして病人を救えと命ぜられ大いに効験があった。そして数名の名前が書かれている。

本にはそれしか書いていない。

 

 

私はそれから幾度も東谷山に出向き、安◎という家を探した。安◎という姓はありそうであまりない名字だった。安も◎も名字にはよく使われる字だが、この二つを取り合わせることはあまりない。

今まで聞いたことが無いが、そういえば東谷山には何軒かあった。ナスコの幼稚園もこの辺りにあり、同級の子に安◎という子がいたっけ。しかし、表札を見て見ず知らずの家にピンポンして「お宅に古い、名前が彫ってある石はありませんか、と聞いて回る勇気もなく、結局そのままになった。

 

 

 

 

#ナスコに赤ん坊が生まれ、夫の母が写真を送れとうるさいので(もう一度は送っているのだけど)東谷山の写真屋にプリントを注文する。先週金曜日の夕方だった。

 

 

店長「実は、ですねえ、ノルマで、うちの店で今日中にiphone7を7台売らないといけないんです。最後の一台がどうしても売れなくて困ってるんですが・・・破格の条件です、買いませんか?」

つい数日前うちのスタッフに「今度のiphone7は売れないよ。防水機能が付きました、ってそんなもん付かんでも わたしゃ一度も水に落としたことなんかないし。私は、絶対買わない。もう十分だよ、機能的には。iPhoneもジョブスが死んじゃったのが運の尽きだね。大体高すぎるし。」と言ったばっかり。買うもんかね。

 

 

ところが。

 

 

条件を聞くと確かにいい。3ケ月くらいは今の機種代が残ってるから3500円ばかり高くなるのだけどそのあとは今の料金より2000円ほど安くなる。

 

・・・・・うむ! 買おう。

 

 

急転直下私は新しいiphoneを買うことになり、夕方から手続きに入った。iphoneを売るのはあまり慣れてない店舗らしく手続きはうんと時間がかかり、データの移行はしょっちゅう行き詰まって、店長はオタクの詳しい部下をたびたび大声で呼んだ。「やす◎〜! やす◎〜!」

 

東谷山の安◎・・・・? どっかで聞いたような?

 

 

私の胸はだんだんどきどきしはじめた。このお兄ちゃんは安◎さんというのか! しかし、なんと言って話しかけたもんか・・・。

 

 

 

ナ「あのう、あなた安◎さんとおっしゃるの?」

安「はい。」

ナ「安◎さんてこの辺にお住まい?割と珍しい名字ですよね?」

安「はい。東谷山以外では聞いたことが無い名前ですね。」

ナ「あのう、私、もう何年も前から東谷山に住んでいる安◎さんを探していたの。実は、石を探していてね。東谷山の安◎さんの家の庭にあるということは分かっているんだけど。人の名前が書いてある古い石なの。江戸時代くらいの。どなたかご親戚の家か何かにそんな石があるという話を聞いたことは無いかしら? 何か知らない?」

安「ああ! 知ってますよ。うちのじぃちゃんちです。」 えっ! えっ! えええええええーーーーっ!

 

 

鳥肌が立った。

 

 

 

 

#ナ「私はその石に名前が彫ってある人の子孫で、谷山観光協会の本でうちの先祖の名前を見つけ、安◎さんちにある話を知ったの。何年もあの辺りの安◎さんちを探し回ったんだけど分からなくてね。知らない家にピンポンしてあなたの家に石がないか、って聞いて回るのも変じゃない?そんな勇気ないし。ああ、私は今日ものすごく幸せ者だわ! なんでiphone買うことになったのか分かった。これはナオザエモンの引き合わせだわ!!」

 

彼は丁寧ににじいちゃんちを教えてくれ、私は、じいちゃんに宜しく言っておいてくれ、私が必ず行くと。くれぐれもよろしく頼む、と言って別れた。

 

 

 

 

#数日、仕事やら何やらに振り回され、やっと水曜日の夕方、焼酎と和菓子を持ってその家を訪ねた。家は元職人だった人の家らしく、雑多な工作用具や板や部材が置いてある、藪蚊が乱舞するぼうぼうの家だった。親切そうなおばあさんが出てきて庭に回れと言う。80歳過ぎくらいだろうか、実直そうなおじいさんが庭に下りてきてくれた。

 

ナ「私はこの碑に書いてあるナオザエモンという人の子孫です。父がこのナオザエモンさんのことを大切にしていました。ここにその石があると聞いてやっと場所を探し当てて来ました。先日、写真屋にお勤めのお孫さんと偶然その話になって分かったんです。あの、見せてもらってもいいですか?」

 

どうぞどうぞ、と言われてうちのナオザエモンの名前を探す。

 

あった。

 

あった。

 

ナオザエモンは180年前の時代に生きていて、この碑を見たに違いない。自分の名前が彫られたのを誇らしく触れただろう。感無量。

 

おじいさん「時々見たいと言う人が訪ねてきますが、この碑に名前が出ている人の子孫だというのはあなたが初めてですよ。元は隣の家もうちの地所で、そっちにあったんだが、私の伯父が売ってしまってね。私が慌ててこっちに運んで来たんだけど、その時に上が割れてしまったんです。」

 

よくぞナオザエモンのところが割れなかったことよ。

私の名刺と菓子と焼酎を渡すと、こんなことせんでも、と押し返すのを、

ナ「うちの先祖のナオザエモンは今日までこれを大切に守ってくれてありがとう、と必ず思っているはずです。

本当に本当にありがとうございます。これはナオザエモンの供養です、大したものではありませんが。

父はナオザエモンが大好きでしたから、父が生きていたら見せてやりたかったです。

父は必ず何か持って行ってお礼を言ってくれと言うはずです。

どうか、どうかこれからもこの石を宜しくお願いします。」

 

正直に言えばこの石が邪けんに扱われていたら、

「要らなくなったら買うから譲ってくれ」と言いおいて帰るつもりだったがおじいさんが大切にして下さっているので安心して帰ってきた。

 

 

 

#いつか長岡に行こうと思う。

 

私もあの時の父の年に、なったのだな。

 

長岡に行って10年を待たず父は最初の発作で倒れている。

 

私も、自由に動けるのはあと10年くらいなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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暑過ぎた夏のラプソディ

 

今日の空

 

#子供たちがそれぞれ家を出て老夫婦二人暮らしになって、後はどちらか一方が病気で入院するなり死ぬなりすればこの人生もとうとう一人暮らしになるのね、私が死んだら(自分が残ると思っている)この家も消滅か、と思っていたところだったが。

 

7月下旬にナスキが夏休みで帰省し、31日にナスコが金ちゃんを産んで里帰り。婿が帰りに立ち寄り夕食を共にするということになって このところコメの消費が激しいなと思ったらいつの間にか我が家の頭数が増えている。夫、私、ナスキ、婿、ナスコ、金ちゃん、猫。人生とは分からないものである。人の一生とは集合離散で行くものなのか。夏も終わりに近づき、ナスキは「地獄のような(に働かされた)夏だった」と評して自分のテリトリーへ帰っていった。

 


 

 

 

#金ちゃんはこの30日で生まれて一か月になる。ナスコは丈夫な産褥婦で、裾も切って縫合もしたというのに10日も経たないうちから「ちょっと銀行に行ってくる」と自転車に乗って銀行まで出かけた、と、金ちゃんのお守りを押し付けられたナスキが言いつけに来た。うちの自転車は電動アシストのついたヤツではあるが、通常一か月は床上げをせず安静にしていなさいという時期になんということであろうか! 

問いただしたところ、私の帰宅を待っていると100円の時間外手数料の時間帯でしか動けないので勿体ないと思った、とのこと。それで具合悪くなって病院にかかったら100円では済まない、と苦言を呈した。

 

鹿児島はこの夏、経験したことが無い程暑い夏だった。先週は一番暑いときの外気温(自家用車についている温度計)が38度というのを見た。ある日帰ってみると、ナスコ(着衣)が椅子に座ってミルクをやっている。(混合栄養)ところがなぜか赤ん坊はおむつもつけていないスッポンポン。一体どうしたのか聞いたら暑いし(クーラーつけれ!・ナスコはクーラーが嫌い・しかし37度だぞ!)おむつかぶれが気になるとのこと。(おむつかぶれはうんちした後すぐ洗面器につけてさっと洗って、すぐおむつを巻かずに少し乾かしなさいと私が言ったのだが)

 

 

スッポンポンの赤ん坊(♂)が哺乳瓶でミルクを飲んでいるの図はちょっと動物的でシュールだった・・・・。ナスコももう今年で30歳になるのだけれど、私も30の時ってこんなもんだったんだろうか?????

 

 

 

#金ちゃんは生後すぐの血液検査でドクターが感心しないものが一つあり、「早産の子にはよくあることで大した異常ではないので日を追って多分消えるでしょう」とのこと。しかしドクターが感心してくれる数値になるまで「再検査を繰り返さないといけない」ことになった。「ミルクの飲みもいいし、順調に体重増加もあっているので多分大丈夫でしょう」とも言ってもらった。

ナスコにはどういう赤さんが出るかは分からないんだよと何度も言ってあったけどこれくらいのことで、ナスコはその夕方は気落ちしてシクシク倒れていた。安静にするよう言ったのに、暑い中自転車に乗ったり、新生児を連れて自分の家に行き、掃除をしたりしたので疲れもあっただろうが、産後の急激なホルモンの乱調で平時の精神状態ではないのかもしれない。

 

 

 

#先に孫を持った友人たちが、「昔から言う通り、孫は来て良し、帰って良し、だよ。」と言うのを、嬉しいばかりだろうにどうして?と思っていたけれど、確かにそろそろ帰ってくれるとありがたいと思うようになった。婿の食事は慣れないのでかなり面倒だ。向こうも遠慮して好き嫌いは言わないしいつも全部食べて帰っていくけれど、本当は味付けにいろいろ好みもあるだろうし 油物は胃弱なたちなのでフライ、てんぷら等はNG。和食って結構手がかかるんだよねえ。仕事のあと買い物、料理が毎日となると、夫と二人だとかなり楽ちんで気ままに暮らしていただけにちょっときつい。おまけに婿の両親も赤ちゃんを見に来ると分かっていたので、ナスコが産気づいたと聞いた夫はすぐ庭に出て掃除をしていた。庭が草ぼうぼうだったのである。来週日曜日、お宮参りをしてご一行様はお帰りになる。やれやれ。

 

 

 

#保健婦さんが一カ月前の訪問にやってきた。順調に発育しており、標準一日30〜50の発育のところ53グラム、ちょっとミルク控えても?的なアドバイスだったらしい。ミルクを足すと赤ん坊はすぐ太るんだよな。

金ちゃんは標準量を一気に飲み切ってもっと欲しがっているので、吐かない程度にミルクをやり、3時間できちきちやっている哺乳の時間間隔をもう少し開けるようアドバイスした。保健婦さんが聞いたらクレームが来そうだが、私はそれで1、2カ月くらいから夜は5時間空けた。子供も起きなかったし。標準70奸80佞覆里如3時間おきだと一日8回、560佞らい飲んでいるわけだが、何も3時間に1回やらなくても、1日560佞らい飲んでいれば時間は適当に調整すべきだと私は思う。

 

 

ナスコの姑は保健師の資格を持っている人で、姑の姉は助産師で現役で教えている人なので、実は母乳保育には割とうるさい家なのだった。生まれた後に母乳保育関係の本が沢山届いた。母乳は30佞らいしか出ていないんじゃないかと思いつつ、私はちっとも構わないと思っているのだけど、向こうの家に行ったときにミルクを足すところを見られた時の反応が心配。私もあんまり出なかったし別にミルクでも全然かまわないやと思っている人なので、・・・。ナスコに乳もみ屋を勧めてみたが、気乗りしなさそうだった。

 

 

ナスコやナスキが生まれたときのこと、実家の妹が生まれた時のこと、どんなふうに育てたかをかなり具体的に説明しておいた。娘のお産の時実家の母親がしっかりついているのといないのとでは有利、不利がかなり違うと思う。私は母とあまり仲が良くなかったが、母は産婦人科を開業していたのでたぶん当時で最も恵まれた産褥婦だったかもしれない。分娩こそ長期入院で大変だったが、1ヶ月の間は病院備え付けのミルク(業者がタダで持ってくる)、業務用のおしめ(当時紙おむつが出始めた頃でほとんどはまだ布だった)は洗う必要がなく、赤ちゃんの沐浴は沐浴室でうちの看護師さんが入れてくれたから本当に楽ちんだった。

 

 

だから、父が、

「お前、明日お宮参りが済んだら一旦自分の家へ帰れ。」と言った時はショックであ〜ん(泣)な甘ったれだった。今思えば、命の危機に瀕したお産は思ったより侵襲が大きく、かなり重いマタニティブルーになっていたと思う。

父「とにかく、一旦帰れ。また来るのはいつ来ても構わないから。それがケジメというものだ。」と言った言葉に内心、こんな首がぐらぐらする子を抱えてそうそう行ったり来たりできるもんかい、と思ったが、今思うと父の意見は全くその通りなのだった。一旦帰らないと私たち夫婦はきっちり自立出来ない危険があった。

 

ナスコにもそのことを話し、来週お宮参りが済んだら一旦自分の家へ帰るよう促した。「おじぃちゃんの遺言だから。」(笑)

 

 

一昨日、台風の影響かものすごい雨が降った。数時間だったが、このところの路面の乾燥で 夜、車で出かけたら路面から水蒸気が立ち登っている。焼け石に水状態? 

 

 

今朝は秋の到来を思わせる涼しい風が初めて吹いた。

そういえばやかましく鳴いていた蝉が、今日はいつもの1割くらいしか鳴いてない。

 

 

そして私たち夫婦の、この暑すぎた夏のラプソディはやっと終わる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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